気が付くとひと月近くKKの顔を見ていなかった。
最近のMZDは幾つかのイベントを抱えていてそのなかには自身が出演するものもあり、まぁ簡単に言えば珍しく忙しかったのだ。そういうのは重なる時には重なるものである。
腹の傷が無事に治ったのか気になって携帯にかけてみることもあったが、タイミングが合わないようで仕事中だったり留守電だったりでゆっくり話も出来なかった。KKはこちらが誘わなければ出てこないから(唯一の例外は超過勤務のあとだけだ)、そんなこんなで、気が付けばひと月近くが過ぎていた。
あらかたイベントの波もおさまり、ようやく時間の出来たところで電話でもかけてみようか、とも思うのだが、なんとなくボタンを押すのをためらってしまう。
――変なの。
MZDは自分で自分に首をかしげる。
仕事で忙しかっただけであって、別にわざと無視していたわけではないのだから、こちらが気に病む必要などどこにもないのだ。KKだって微塵も気にしていないだろう――付き合い始めたばかりの恋人同士でもあるまいし。
それでもやっぱり手が止まってしまう。携帯とにらめっこを続けるMZDを、影は不思議そうに見下ろしている。ふと顔を上げて目が合うと、MZDは情けなくも苦笑するように口の端を持ち上げた。
ずっと以前から、引っかかっていることが一つある。
『説教するんなら帰れよ』
KKは自分の内に入ってこられるのをひどく嫌がる。指図されるのも大嫌いだし、第一言ったところで素直に聞かない。まぁそういう辺りは自分も同類だからなにも文句はないのだが、それならどうしてそんな目をするんだといつも言いたくてたまらない。
――なに待ってるんだ?
ずっと、気持ちを押し殺して、歯を食いしばって、なにかに耐えて、なにかを待ち続けているような、そんな目をKKはする。愛想笑いと自嘲を繰り返す口に煙草をはさむのは、まるで言葉に出してしまいそうな欲望を抑える為にしか見えなかった。
KKのことは多分殆ど知らない。知らなくてもいいと思っている。教えたいと向こうが思えばきっと話してくれる。MZDはそれを待っている。
待つことは苦痛じゃない。だけどKKは違う。苦しくてたまらないのに、それしか方法がないと考えて――思い込んで――ずっと待ち続けている。
なにを?
「なんだと思う?」
MZDと並んでフロアの壁に寄りかかって腰をおろしていた影は、いきなり話しかけられて驚いたように振り向いた。そうして、なにが? と訊き返すように首をかしげてみせた。その仕種がおかしくて、MZDは声を上げて笑った。
「なんでもないっす」
フロアのなかでは開店準備が進んでいる。俺もたまには働きますかね、と呟いてMZDは立ち上がり、向かいにあるカウンターへと歩いていった。
結局電話はかけなかった。
KKはくわえ煙草でモップを洗っている。水道を流しっぱなしにしてバケツに受けて、そのなかで上下にモップを泳がせて汚れを落とす。一つ絞るとまた次のモップ。地下駐車場の隅に設置された洗い場のそばには空気ダクトが大きな口を開けており、換気の為に流れる空気が冷えた駐車場を余計寒々しく感じさせていた。
ラーメン食いてぇ、とぼんやり思いながらKKは煙草の灰を叩き落とす。濡れた手が煙草を駄目にしてしまい、小さく舌打ちをするとそのままゴミのなかへと放り込んだ。
予定外の残業だった。来る筈だった大学生のバイトが休んだ為に二時間近くも居残る羽目になった。翌日が休みであることが唯一の救いだった。
「お疲れさん」
榊のジジィが新しい汚れ物をバケツに詰めて持ってきた。
「まだあんの?」
「これで最後だよ。もうあらかた片付けも終わったし」
見ればエレベーターから道具を持った仲間がぞろぞろと降りてきていた。みんなお揃いの青のつなぎを着ている。KKは新たに与えられた汚れモップを手に取って無言でバケツに突っ込んだ。
「お前も飯行くか?」
「うん。ああ――」
どうすっかな、とKKは呟く。
特に用事があるわけではないけれど、疲れているのか人と話をするのが億劫に感じられていた。しばらく考え込んだあとに、やっぱりいいやと首を振った。
「電車で帰るよ」
「事務所戻らんのか」
「別に、荷物もないし」
必需品は煙草だけだ。今日は着替えも持ってきていない。
やがて道具を車に積み込むと、お疲れと呟いてKKは駐車場の出口へ向かった。作業車が脇を通り過ぎる時にクラクションを鳴らしていった。助手席に座ったジジィが煙草を持った手をひらひらと振っている。KKは軽く手を上げて返事をし、冷え込んだ空気に包まれて、あわてて上着の前を掻き合わせた。
真っ暗な空を見上げてどうしようかとぼんやり考える。実際腹は減っているのだが、猛烈になにかを食いたいという欲求は薄かった。さっきはラーメンがいいと思っていたのに、あらためて考えてみると本当は別のなにかがいいように思われた。だけど、じゃあ別のものはなんだろうと考えてもなかなか答えが浮かばない。
たまにそういうことがある。体の感覚と意識が上手くつながらないのだ。
こういう時はとりあえずなにかが食いたくなるまで放っておくのが一番だから、KKは特に考えもせずに駅に向かって歩き出した。目に付いた店に適当に入ろう。腹がふくれるなら別になんだって構わない。
そうして気付く。――あぁ、捨て鉢になってんだなぁ。
自分の全てを上手く把握出来ないのは気分の悪いものだ。体の感覚と意識のかみ合わせの悪さはひどい不快感となってKKを苛立たせる。こうなると残された選択肢は二つだけだ。アパートに帰ってとことん眠ってしまうか――誰かに甘えるか。
やっぱりみんなと飯行っときゃ良かったなと今更ながらに後悔した。でももう遅い。KKは内心でため息をつくと自販機でコーヒーを買ってガードレールに腰をおろした。煙草に火をつけ、帽子を目深にかぶり直す。
街はクリスマスに向けてあちこち飾り付けられていた。きらびやかな電飾は目が痛いだけで虚しく見える。うつむいた視界のなかを横切る人々の足をみつめて、お前らどこ行くんだよと心のなかで一人一人に問いかけた。
素直に帰って眠るのが一番だ。そう思うのに立ち上がれなかった。いらいらと足を叩いて、くそ、と吐き捨てて、またため息をつく。
なにが欲しいのかわからない時ほど嫌なことはない。ゆっくり眠りたい、あったかいところ、そういうイメージはあるが、アパートの自室では必要ななにかが欠けていた。
なにかが足りない。――なにが?
わからない。
KKは苛立ちと共にコーヒーを飲み干して、煙草を深く吸うと足元に投げ捨てた。怒りをぶつけるように強く踏み潰して立ち上がる。ガキじゃねぇんだからよと自分を罵倒して歩き始める。ともかく道端で眠るわけにはいかない。
フロアの人いきれで、エアコンは弱くしてあるのに汗を掻いていた。換気かんきー、と誰に言うでもなく呟きながらMZDは外へ出た。冷えた空気が火照った体に心地良い。深呼吸をして息を吐き出した時、不意に影に肩をつつかれて振り向いた。
道の向かい側、シャッターを下ろした雑貨屋の前で、青のつなぎが腰をおろしている。
MZDはゆっくりと歩き出した。
目の前で立ち止まってもKKは顔を上げなかった。地面に置かれた缶コーヒーはフタが開いていない。煙草を口へ運んでいるので眠っているわけではないようだ。警戒している様子もうかがえるので、こちらの存在にはきちんと気付いているらしい。だけど顔は上げなかった。
「なにいじけてんだよ」
そう声をかけると、ようやくKKは目を上げた。
「……別に」
つまらなさそうに呟いてまたうつむいてしまう。
「なかはいんないの?」
「……」
「寒いでしょうに」
「寒い」
MZDは苦笑して、来いよと手を振った。KKはのろのろと立ち上がり、缶コーヒーを拾うと代わりに煙草を投げ捨ててあとについてきた。
なかへ入るとKKはまっすぐ壁際のソファーに向かった。腰をおろして体を落ち着かせ、肘掛にもたれかかるようにして目を閉じてしまう。なんだそりゃとMZDが呆れて見ていると、不意に起き上がり、カウンターで酒をもらってきた。そうして一口二口飲んではテーブルにグラスを置いてまたソファーにうずくまる。
帽子が邪魔をして表情は殆ど見えない。
「腹の傷はどうよ」
「だいたい治った」
KKは顔も上げずにそう答えた。
「寝るの?」
奥の部屋に行かないなんて珍しいなとMZDは思う。今日は仕事をこなしてきたわけではなさそうだ。
KKはのろのろと顔を上げるとMZDに向き直った。
「駄目なら帰るけど」
そう言う顔が本当にいじけているかのようで、MZDはつい苦笑を洩らす。
「別に駄目じゃないけどさ」
うるさくないのかと思うのだが、気にはならないらしい。MZDの答えを聞くとKKは無表情に酒を飲み、あらためて肘掛にもたれかかった。そうして、やがては眠ってしまったようだ。MZDは肩をすくめて同じくソファーに腰をおろす。KKが目を醒ましたのは三時過ぎだった。
このぐらいの時間になると客もだいぶ減ってくる。倦怠的なムードがフロアに充満し、それにつれて音楽も少し静かなものが流される。
こんな感じのぐだーっとした空気がMZDは嫌いじゃない。眠りと目覚めの曖昧な境目をふらふらと漂ううちに、難しいことはなにも考えられなくなる。フロアのなかは、だから穏やかで、時折音楽だけがその間隙を衝いて存在を主張する。
KKは肘掛にもたれかかったまま上着を探って煙草を取り出した。
「お目覚め?」
MZDがそう声をかけると、少し驚いたようにこちらを見た。
「何時?」
煙草に火をつけながらそう訊く。
「三時回ったとこ」
KKは気だるそうに煙を吐き出して、すっかり氷の溶けてしまった酒を一口飲んだ。
「お前、あそこでなにしてたの」
「あそこって?」
「店の前で座ってたじゃん」
缶コーヒーを前にして、まるでいじけてるみたいにうずくまってたじゃないですか。だけどKKは特に弁解するでもなく、別に、と呟いてまた酒を飲んだ。
酒は氷が溶けたお陰でだいぶ薄くなっていた。なにか納得のいく説明をしなきゃいけないんだろうかとKKが不安に思っていると、MZDはとぼけたように笑い、肩をすくめた。
「お前、ここに住むか?」
「……いいよ」
別に、この場所そのものを気に入っているわけじゃない。
ここは店だから絶えずいろんな客が居て、だけど往来じゃないから大抵は何時間かここに滞在する。自分がまぎれ込んでも、同じ空間に居ながら無視してくれる。受け入れながら排除してもらえる。それが落ち着くからここに来るだけで、誰も居なくなったあとのがらんとしたフロアを独り占めしたいわけじゃない。
そうは思うのだが、やっぱりそれをどう説明したらいいのかKKにはわからない。気まずい気分で煙草を口に運び、今から帰れと言われたらタクシーしかねぇよなとぼんやり考えた。
「奥じゃなくっていいの?」
MZDは帰れとは言わなかった。KKは安堵して煙草の灰を叩き落とし、ここがいい、と返事をした。
「うるさくない?」
「馴れてら。――お前が帰る時は起こせよ」
「起きるまで居るよ」
そう言ってMZDは立ち上がり、じゃあな、と手を振って歩いていってしまった。KKは煙草をもみ消すと酒の残りを飲み干してまたソファーにうずくまった。
これで安心して眠れる。そう思って目を閉じた。音楽は確かにやかましいが、意識から締め出してしまえばなんてことはない。眠りの波を探しながら、KKはこっそりと小さく笑った。
『起きるまで居るよ』
多分、それが聞きたくてここに来た。――多分。
渇き/2006.04.08