玄関の開く音がした。あいつが帰ってきたようだ。俺は文庫本の隅からダイニングの扉を一瞥し、しかし擦りガラスの向こう側にあいつの姿が見えたとたん、またページに視線を戻した。
「ただいまー」
ぐるぐる巻きにしていたマフラーを外しながらあいつが扉を開けた。俺はソファーで横になったまま、お帰り、と呟いた。
「ただいま。あー、寒かったよー」
手にしていたマフラーを俺の体の上にポンと放り、そのまま抱き付いてくる。茶色の髪の毛が頬をくすぐった。あいつの体は冷え切っていて、全身から真冬の匂いがした。冷たい風の匂い、澄み切った夜空の匂い。
「も、聞いてよ。今日すっげえ大変だったんだから」
「あぁそう」
「団体の予約が入ってて女の人だったんだけど、なんかお祝いなのかと思ったらただの飲み会でさ、しかもすっげー声でかいの。店狭いから会話丸聞こえでさ、料理出せばいちいちこれなにが入ってるだのこれなんの味がするだのって、もうね、黙って食ってろって感じ」
しかしカフェの店員が客に向かってそんなことを言ったら即行でクビだろう。だが恐ろしいのは、こいつならそれを実行しかねないということだ。
「そいつら帰ったと思ったら今度はいきなりカップルが喧嘩始めやがるしさ、もうね、あいつらまとめて爆弾とかで吹き飛ばしちゃえばいいと思うよ」
「ふぅん」
頭を撫でながら俺は本を読み続けている。もう何度も読み返して粗筋なんか全部覚えているのに、それでも読みたくなる本というものはある。
「ふぅんって、それだけ?」
不機嫌そうに呟いて、あいつはノロノロと体を起こした。俺の上に乗っかったまま、むくれているのかちょっと唇をとがらせて。
俺は軽く首をかしげて視線をあいつの顔に移した。そりゃ話聞く限りは大変だったんだろうと思ったから、慰めるつもりで頭を撫でてやっていたのだが、どうやらそんな俺の気遣いはガン無視らしい。
しばらく睨み合いのようになった。俺は本をテーブルに置いて、ついでにマフラーもその上に載せて、両手を軽く開きながら呟いた。
「大変だったんだな」
「大変だったんだよお〜〜〜〜〜〜」
あいつは泣きそうな顔で、ぎゅうと抱き付いてきた。飽きっぽいこいつが、それでも半年近く勤務を続けている店だ。俺も一度食いに行ったが雰囲気は良いし店の人もいい人たちばかりで、出来ればこいつには楽しく働いてもらいたいと思った。その為のフォローだったら、まあ仕方がない。仕事で気分が悪くなるのは俺だけで充分だ。
こいつが帰ってきたということは、と時計を見る。あと三十分ほどで出発だ。俺は奴の腕から逃れてソファーを下りた。コーヒーを入れる為に台所へ行く。
粉と水を放り込んでカップを二つセットし、機械のスイッチを入れた。出来上がるのを待つあいだに野菜カゴのなかを探り、油紙に包まれたそれを取り出す。
紙は丸めてゴミ箱に放り、銃は背中の方で腰のベルトに突っ込んだ。そうしておいて今度は調味料の並ぶ棚を探り、真新しい黒胡椒の缶を引っ張り出した。フタを開けてアルミホイルを剥がす。なかには半分ぐらい実弾が詰まっている。
「あれ? 今日仕事?」
部屋着に着替えてソファーに腰を下ろしたあいつが驚いたように訊いた。俺は台所の床に座り込んで弾倉に弾を込めながら、仕事、と短く答えた。
なんで気付かないんだよ。お前が帰ってくる前からちゃんとこれ着てただろ。
囚人服の、オレンジ色のつなぎ。
出来上がったコーヒーを持ってソファーの前へ戻った。テーブルにひとつ置いてやり、俺は立ったままひと口すする。そうして荷物をかき集めた。鍵と財布と携帯電話、読みかけの文庫本とプレーヤー。念のために予備の弾倉と背中の拳銃。
上着を羽織ってソファーの前に座り込み、時計を見ながらコーヒーを飲んだ。あいつの指がゆっくりと髪を梳いている。足にもたれ掛かると、まだ冷たい手が頬に触れた。俺はその手を握り返し、ただ時間が過ぎるのを待った。
コーヒーを飲み干して立ち上がり、テーブルに置きっぱなしのマフラーを巻く。最後に手袋をはめて準備完了。じゃあな、と言おうとして振り返ると、いきなり腕を引っ張られた。
長く長くキスをして、いやだから時間がな、と唇を離すと、
「早く帰ってきてね」
あいつが淋しそうに呟いた。
「……多分朝になる」
「朝帰りっすか。いい度胸っすね」
「なら、代わりにお前が行くか」
卑怯な台詞。あいつは言葉に詰まってうつむいた。部屋の沈黙に気付いた俺は、冗談だよと呟いて抱きしめてやった。抱き返してくる腕の強さに安堵して、そっと目を見合わせた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
最後にもう一度唇を重ねて立ち上がった。
外に出ると夜空に満月が見えた。辺りに白々とした光を放っている。だけど俺が向かうのは暗闇のなかだ。どんな小さな光も射さない絶望の闇。
携帯電話で時刻を確認し、やっぱり戻りは朝になるなと考えた。帰ってきたら、ベッドのなかのあいつに抱き付いてやろう。俺の体に染み付いた朝日の匂いを嗅がせてやろう。そう考えながら音楽をスタートさせ、俺は階段を下り始めた。
鏡の向こう/2008.11.15