訊かれて困る質問が一個だけある。
『ケイさんって、彼女居るんですか?』
 即座に居る、と答えたいのはやまやまなんだけど、そう訊かれた瞬間俺の脳裏に浮かび上がるのはKKの仏頂面だ。
 俺が彼女? 誰の彼女? っつか、こんなムッサイ男捕まえて彼女とか平気でノロケるとかお前本気で頭涌いてるんじゃねえの、なんて、普段喋らない分実に攻撃力のある台詞を、あいつは空想のなかでさえかましてくれる。
 そんなことないよ、Kちゃんはムサくても充分可愛いよ、ってかそのむさ苦しいところが可愛くて堪らないんだよ、と俺は想像上のKKに向かってにこりと笑いかけ、ようやく最初の質問に対して「居る」と答えるわけだ。
 この間、約一秒。
 自分ではなるべく迷わずに答えているつもりなんだけど、一秒って意外と長いよね。訊いてきた相手はその一瞬の間になにやら秘密の匂いを嗅ぐらしく、ホントですかー? とか、なに今の間は、とか、突っ込んで欲しくない感じでつついてくる。
 でもさ。言えるわけないじゃん。俺の恋人は俺より背が高い男で、仕事は殺し屋やってます、なんてさ。
「仕事なにしてる人なんでしたっけ」
 バイト先のイタリアンカフェで、ランチタイムの波がようやく納まった頃。一緒に皿洗いをしながらバイト仲間が訊いてきた。
「んー、なんか派遣で色々やってる」
 拭き終わった皿を棚に並べつつ俺はしれっと答えた。これはある意味間違ってないし。
 KKは今殺しを専門にしている。俺も所属するヘルクリーンという清掃会社の、裏の「掃除」で稼いでいるわけだ。
 最初出会った時は、お互い「表」の掃除現場だった(ってか、たかが掃除に裏とか表とか、なにそれって感じだけどね)。一応は俺の方が先輩で、まだ入ったばかりだから細かいこと教えてやれってジィさんに命令されてあいつに引き合わされた。
 第一印象は「目ぇ細っ」だった。まるで前の晩思いっきり泣いて、更に寝不足でまぶた盛大に腫らしたまま現場に来たかのようだった。なんか、目って言うか、カッターで薄く切り込み入れた覗き穴って感じ。
 口数少ないし、滅多に笑わなくて無愛想だし、あんまり良い印象はなかったな。それが十年ぐらい前。なのに今じゃ一緒に暮らして一緒のベッドで寝て……初めて会った時は、ホント想像もつかなかった。
 だって俺ら、喧嘩したんだもん。その時。ジィさんに引き合わされた、まさにその瞬間。
 ……まあ、多分悪いのは俺なんだ。お前は考え無しに物を言いすぎるって前からジィさんにもよく叱られてたし。
 でもね、初めてKKを見たら誰だって言いたくなると思うよ? 目ぇ細っ! って。言わないまでも、心のなかじゃ絶対驚くって。目ぇ細っ! って。
 んで、俺も驚いたからさ、つい言っちゃったんだよね。「目ぇ細っ!」……って。
 そうしたら、バケツが飛んできた。なみなみと水の入った一斗缶が。
 朝現場に着いて仕事の準備済ませて、さあやるぞって時だよ? あまりの素早い動きに俺は呆気に取られるばっかで、バケツを避けられなかったんだ。勿論全身びしょ濡れ。更にあいつは殴りかかってくるし俺だってやられっぱなしは堪らないから即応戦。結局二人仲良く現場を追い出されて試合終了。
 ……よく出会いがそれで、今付き合ってられるよな。改めて思い返してみたらすげぇビックリだわ。
 と、ここまで記憶を再生させて思い出したことがひとつある。
 俺、謝ってもらってない。バケツ投げ付けられて全身びしょ濡れにされたこと。ついでに言うと、当然ながらその日入る筈だった収入がパーになったこと。
 俺は仕事を終えてマンションに帰ると上着も脱がないままKKに詰め寄った。
「Kさん、お話があります」
 居間のソファーに座って雑誌をめくっていたあいつは、俺の方をちらりと見て、
「なに」
 と面倒臭そうに呟いた。俺はソファーの上に正座して、ちゃんと折り入ってお話があるんですよと主張しているのに、あいつはそんなことなどどうでもいいって態度だ。腹が立ったけど、ここはひとまず我慢我慢。
「Kさんは俺に初めて会った日のことを覚えてますか」
「……なんとかって名前の病院」
「そうです、今から十年以上も前、とある春の日の朝に俺達は出会いました」
「お前が喧嘩売ってきたんだよな」
 あまりのことに反論の言葉を失った。ってか、そう取る? そう取りますか?
「いや、別に喧嘩売るつもりはなくって、」
「『失恋でもしたの?』とかくだらねぇこと訊いてきたよな」
「……え? そうだっけ?」
「『蒸しタオルするといいよ』とか教えてくれたよな」
「…………そんなこと言ったっけ?」
「駐車場で着替えながらよ。なんであの時ぶっ殺してやらなかったんだかな」
 あいつは吸いかけの煙草をもみ消すと雑誌をポンと放り投げた。
「なんだよ、あの時の決着つけようってのか」
「……え、いや、そんなつもりじゃ全然なかったんだけど」
「じゃあどんなつもりだったんだよ」
 どんなつもりって訊かれても。ただ俺は、お互い腹を割って当時のことを話して、悪かったよ、ううん俺もちょっと酷かったよねって言って、そんでベッドで仲直りとか甘いことを考えてたんだけど――甘すぎましたか? え、なんか物凄くヤバイ雰囲気じゃない?
 伸びすぎた前髪の向こうから、あいつが怖い顔で睨み付けてくる。馴れないと全然わからないんだけど、俺は馴れすぎてて機嫌とか凄くわかっちゃうから、今すっごい怖い。マジだ、これ。
 思わず謝っちゃおうかとか考えたけど、それはなんだか許せなかったので黙っていた。多分これも俺の悪いクセだ。
 痛いぐらいの沈黙が居間を占領し終わった時、
「嫌なら出てけよ」
 あいつがぽつりと言った。俺は無言で首を横に振った。ソファーの上で正座しながら。上着着たまま。マフラーも巻きっぱなしで。なにも言い返せず、バカみたいに何度も何度も。
 ヤバイ。ちょっと泣けてきた。
「別に無理して一緒に居るこたねぇだろ。嫌なら出てけよ。なんなら俺が出てってもいいぜ」
 なんでこういう時に限って良く喋るんですか。そう突っ込みたいけど声が出ない。
「………………ぅよお」
 ようやく言葉をひねり出した時、握りしめた俺のこぶしの上に涙が落ちた。
「そういうつもり……別に、嫌だとか、そういうことじゃなくてさあっ」
「……」
「ただちょっと、思い出したからさあ、」
 しゃくり上げたせいで言葉が途切れた。あいつは相変わらず怖い顔でこっちを睨んでいる。
「俺、行くとこなんかないしさ、……ホント、ないしさあ」
 だからって、出ていかれるのも困っちゃうしさあ。
「えー……Kちゃん、もしかして俺のこと嫌い? 一緒に住むの嫌だった? やっぱ一人のがいい? こんな、長く一緒に住んでて訊くの初めてだから今更かも知んないけど、え、ねぇ、……俺のこと嫌い? ってか、俺しつこい?」
「しつこい」
「………………」
 もう出てくる言葉はなかった。なんでいきなりこんなシリアスなことになっちゃったんだろうって、何度も考えたけど全然わからない。
 やっぱ俺か? 俺が昔のこと蒸し返して、なんかイチャモン付けた感じになっちゃったのか? いや、確かにちょっと不機嫌になられるぐらいのことは覚悟してたけどさあ。まさかこんな、別れ話に発展するなんて一体誰が予想するよ。
 ……やっぱ俺、バカなのかなあ。普通の人はちゃんと予想出来るものなのかなあ。
「……お前が」
 ソファーの上で正座したまま途方に暮れていると、不意にあいつが呟いた。涙を拭って目を上げる。あいつは何故か一瞬たじろいでから言葉を続けた。
「お前の方が嫌なんじゃないのか」
「――なんで?」
「だって、そんな昔のこと、いきなり言うから」
 気が付いたら居間の空気が元に戻っていた。俺は、そんなわけないじゃんと吐き捨てて、また泣いてしまった。
 ボロボロと涙が落ちる。情けないのはわかってるけど、とりあえず嫌われていないことがわかって安心したのか、なんかいきなり物凄く泣いてしまった。
 あいつの手が俺の頭に触れた。悪かったよと言いながら何度も撫でてくれた。
「Kちゃんのバカ。Kちゃんの意地悪。大っ嫌い」
「……」
 ありったけの悪口をぶつける俺の手を握って、KKはずっと黙っている。ようやく涙が引いてきた頃、あいつは悪かったよと繰り返し、
「……頼むから嫌わないでくれよ」
 ――そんなこと言わせるつもりじゃなかったのに。


 ベッドのなかで抱き合って何度もキスをしている。あいつはちょっとだけ嫌がる素振りを見せたけど、今日ばかりは逃がすものか。
「Kちゃん」
 名前を呼ぶと、うん? と小さく返事をして顔を寄せてきた。
「ね、もしホントに別れたいとか言ったらどうする?」
「……くだらねぇ質問してるあいだに、とっとと荷物まとめて出てけよ」
 だから、なんでそういう時だけ言葉が流暢なんですか。
 あいつはくるりと背を向けると枕を整えて眠る体勢になってしまった。俺は慌てて、冗談だからねと言ったけど、やかましいって殴られて終わっちゃった。
「Kちゃん」
「……」
 暗がりのなかでわずかに見える横顔を眺めながら俺は言った。
「……お願いだから、黙って居なくならないでね」
 ため息が聞こえて、KKがこっちに向き直った。俺のこと抱きしめて、バカ言ってないで早く寝ろって叱り付けた。


糸切れた/2008.11.17


音箱入口へ