――夜は空気がやさしい。
MZDは歩道の縁石の上を爪先立ちで歩きながらぼんやりと思う。
後ろを振り返ると、暗がりからわずかに浮かび上がった影の姿が見えた。ふらふらとした足取りで歩く自分のことをにやにや笑いながら見下ろしている。なんだよ、と呟くと、別に、とでも言うように肩をすくめて宙へと伸び上がった。
――上の天気はどうだい、空気が薄くて大変なんじゃないの?
MZDはそう言って一人きりで笑った。
秋も深まり、じきに冬が到来する。風はないが深く冷え込んだ空気が確実にそのことを伝えていた。それでも辺りを包み込む闇はわずかに温かく、MZDは何故だか嬉しくなって鼻唄を歌う。背後の信号が青に変わり、幾台かの車が通り過ぎた。まばゆいヘッドライトに眉をしかめ、行儀の悪い奴らだなぁと影を見上げた。
幸せな気分っていうヤツは、どうしてこうも一人じゃ抱えきれないんだろうな。影に聞いても首をかしげるばかりだ。とりあえずさ、もったいないじゃん。自分に言い聞かせるようにそう呟くとMZDは暗い路地へと道を曲がった。特にどこへ向かうつもりもなく歩いていたのだけれど、いつの間にか見覚えのある景色へと入り込んでいた。そんな自分がおかしくてまた笑い、影を見上げて彼は言った。
――多分あいつは寝入りばなだ、お気に入りの歌で突撃かましてやろうぜ。
影が笑うとまた幸せで、どうしてこんなにご機嫌なんだろうと自分でも不思議になった。
暗がりのなかからいきなり子猫が飛び出してきた。こんばんは、そう挨拶をすると、猫は驚いたようにこちらを見上げ、にゃあと小さくひと鳴きした。気配に振り向くと、道の向かいの家の門から兄弟が顔を出してこっちを睨みつけていた。意地悪するつもりなんかないよ、じゃあまたな。MZDが手を振ると、二匹の猫はそれに合わせて軽く首を振る。
風が吹いて木が揺れた。枯れかけた緑の匂いをかぎながら二人はKKのアパートへと向かう。辺りはすっかり寝静まっていて、道を歩いているのはMZDと影だけだ。歩きながらじゃんけんをして、あっち向いてホイ、の勝負を延々と続けた。アパートはすっかり暗がりに沈んでいる。呼び鈴を鳴らしてもドアを叩いても住人は起きてこなくて、耳を当てると、なかに人の気配はなかった。
――どうする?
MZDが聞くと、影は首をかしげて通路の手すりにもたれかかった。にやにやと笑いながら夜空を指差す。見れば、いつの間にやら星の姿が増えていた。影の真似をして手すりから身を乗り出して、こんばんは、今日はなんの集まりだい? MZDは小さく笑い、冷たい階段に腰をおろした。
我が身を掻きいだき、手すりに頭をもたげて、首にかけていたヘッドホンを耳へと押し当てる。スイッチを入れればいつだってお気に入りの世界へと飛び込んでゆく。
コーヒー飲みたくね? そう訊くと、影はさあね、という顔をして背後に座り込んできた。MZDは影の存在を感じながら、まぁいいや、あいつが来たらとびっきり美味いヤツを淹れさせよう、そう思って目を閉じた。
――黒のジーパンにしといて良かった。
KKはタクシーに揺られ、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら考えた。脇腹をきつく手で押さえ、大きく深呼吸をして静かに息を吐き出す。なるべく体に力を入れないよう、だけど車が曲がった時に倒れてしまわないよう、意識は足元に集中させている。
さっきからタクシーの運転手が不安そうな目でちらちらとこちらの様子をうかがっていた。バックミラー越しに二度目が合い、KKは警戒させまいと口だけで笑ってみせたが、それが余計に不安がらせる結果につながっていないとは言い切れない。
たれ込まなきゃいいけどなこの親父、どうせだから別のところでもう一台車を拾うか――だけど、それをすれば口止め料は二倍になる。金はなんとかなるけれど、今の状態で車を拾うのは少しきつい。KKはそう思ってため息をつき、まぁいいや、近場で降りて少し歩こう、少しだけならなんとかなる――。
「最近、冷えますね」
運転手が警戒しながらそう話しかけてきた。榊のジジィより少し若そうだなと思いつつKKは、そっすね、朝早くなんかは寒いですよねと愛想笑いでゆっくりと答えた。
「私らなんかは二十四時間勤務ですから深夜も早朝も関係なしで仕事なんですけどね、でもそんな朝早くからタクシー使うような人なんて居ないでしょう? だから道路に車止めて仮眠したりするんですよ。ヒーターかけて寝てるんですけどね、歳のせいなんですかねぇ、どれだけ温かくしても二時間も眠れないんですよ」
「運転席に座りっぱなしだからっていうのも、あるんじゃないんですか」
「まぁそうですね。リラックス出来ませんもんねえ。歳のせいなんですかね、家でもそうなんですよ。物音がするとすぐに目が醒めちゃってねえ。起きると体のあちこちがギシギシ言うようでしてね。嫌ですねぇ年寄りは。冬場なんかは小さな怪我でも治りにくかったりしてねえ」
――だけど、暑けりゃ膿んじまう。
そういう意味では今が秋で良かった。消毒さえきちんとしておけば、この程度なら縫わなくても済む筈だ。KKはそう思って安堵のため息をつき、べっとりと血で濡れた指をわずかに動かして脇腹の傷を押さえ直した。
――失敗した。
そう思って、だけど、すぐに違うと思い直す。とりあえず目的は果たした。榊のジジィはへまをしたなと笑っていたが、今時は一般人の方がとんでもない武器を持っていたりもする。予想外の抵抗だった、とりあえず一週間は昼の仕事を休んでいいとジジィが言った。せいぜいゆっくり療養させてもらうことにしよう。
脇腹の傷口がずきずきと大きく脈打っていた。頼むから治まってくれ、KKは内心で願いながらまた深く息を吐く。
運転手がどの辺りですかと聞くのに迷いながら答えて、アパートからきっかり二百メートルのところで止めさせた。ここから大通りを外れる。あとをついてこなければ、どこに入ったのかはわからない筈だ。KKは頭のなかで自分に言い聞かせ、小さくうめき声を上げつつ財布を取り出した。
「六千三百八十円です」
「――細かいのないんで、すいませんけど」
そう言いながらKKは金を差し出した。運転手ははいはいはいと呟いて札を受け取り、ほの暗い明かりのなかで自分の手の内に一万円札が三枚あることを確認した。
「え? あの――」
運転手の親父が戸惑っている合い間にKKはノブを引いてドアを開けた。
「取っといてよ」
車から足を降ろしてKKは言う。
「なんかあったかいもんでも食ってくださいよ」
どうせ金は手に入る。その代償としての痛みだ。KKはひきつった笑いを運転手に見せ、ゆっくりと地面に足をつけた。
「なあ、あんた」
座席から腰を浮かせた時、席と席のあいだから運転手があわてて身を乗り出してきた。
「……病院行かなくていいのか?」
――これ以上の面倒は御免だ。
KKは時間をかけて地面にしっかり立つと、大丈夫だよと呟いた。ありがと、と言って後ろ手に手を振ると、絶対に情けなんかかけるなよと内心で吐き捨てながら歩き出した。
――別にたいしたこっちゃない。
とりあえずはまだ生きてるし。
がつん、という衝撃でMZDは我に返った。
冷たく硬い鉄の感触を味わいながら音の波に呑まれていた時だ、自分がどうしてこんな寒いところに居るのか一瞬だけわからなかった。あわててヘッドホンを外して足元を見下ろすと、階段の上り口のところに人がうずくまっていた。MZDは立ち上がって階段を駆け下り、浅い呼吸を繰り返すその男の様子をうかがった。
「大丈夫?」
うめき声が洩れた時、MZDはそう訊いた。男はゆっくりと顔を上げ、
「……なにしてんだよ、暇人」
KKが顔をゆがめながらかすかに笑った。
「なんだよ、腹痛か?」
「まぁな」
立ち上がろうとしてKKは体勢を崩した。転ばないよう手すりにぶつかりながら身をもたげ、一度うめくとそのままそっぽを向いてせわしなく呼吸を繰り返した。手で押さえつけているシャツが血で染まっていることに気付いたのはその時だ。MZDはため息をつき、ほら、と言ってKKの腕を引いた。
肩を貸してやり、二人はのろのろと階段を上がった。KKが遠慮なく体重をかけてくるのでMZDは情けないながらに少しよろけてしまう。真っ暗な部屋に転がり込むと、影が気を利かせて明かりをつけてくれた。
「なあ、」
声に振り返るとKKは壁にすがって立ち上がろうとしているところだった。
「説教するなよ」
「――わかってるよ」
それが無駄なことだとは、とうに教えられている。MZDは苦笑しつつ棚を探ってタオルを何枚か取り出した。消毒液と包帯をみつけ出してKKの姿を捜すと、風呂場からシャワーの音が聞こえてきた。開けっ放しの入口から顔を突っ込めば、床のタイルの上を血の混ざった湯が流れている。さすがに苦言の一つも投げつけてやりたくなったが、苦痛に顔をしかめるKKを見てその気も失せた。
ジーパンを脱ぐのを手伝い、体を拭いてやり、消毒液をぶっかける。湯船の縁に腰かけたKKは、その間ひと言も喋らなかった。
「血、止まってないみたいだけど」
「構わねえよ」
ひと晩寝りゃあなんとかなるだろ。KKはそう言って小さく鼻を鳴らした。
「病院行かなくていいの?」
「面倒なんだよ。色々理由とか聞かれるし」
「その代わりに俺が面倒を引き受けてるわけだ」
MZDの言葉に、KKが不満げな顔でこちらを見下ろしてきた。それでも結局はなにも言わずにおとなしく包帯を巻かれ、MZDの肩を借りてベッドへと倒れ込んだ。
「……ってー」
よくよく見てみると右の肩口の辺りにも古い傷跡があった。こいつはなんだってこんなバカげたことをわざわざ招き寄せるんだろうとMZDはため息をつく。傷を上にして横向きにベッドで目を閉じるKKは、やたら寒い寒いと呟いていた。まるで胎児のように縮こまるKKに毛布と布団を乱暴にかけてやり、床に座り込んで、影と苦笑しあった。
「バカだね、お前は」
KKが目を開けた。なにかを呟いたようだったけれど、言葉は聞き取れなかった。とりあえずコーヒーをもらおうとMZDは立ち上がった。夜はまだ長い。
ずきずきと大きく脈を打つ痛みにKKは意識を取り戻した。いつの間にか部屋のなかは明るくなっており、カーテンの隙間から射し込む光は、気持ちのいい朝の始まりを示していた。痛みのお陰か体はしっかりと目覚めていたが、頭のなかには泥が詰まっているような不明瞭な感じがあった。どうしてこんなに体が痛いのか一瞬だけ理解出来なかった。
とりあえず薬を、と思って体を起こそうとしたが、痛みにうめくばかりで起き上がれなかった。情けねぇなとため息をつき、それでも気合を込めて上体を起こした時、テーブルの上に乗るメガネに気が付いた。
ゆらりと影が伸び上がってこちらをみつめてくる。よお、と声をかけると、床に寝転がっていた主が目を醒ました。
「おはよ」
体にかけていた上着を剥いでMZDが起き上がった。
「帰らなかったのかよ」
「あのまま放って帰って、死体になられちゃ寝覚めが悪いでしょ」
KKはくだらねぇと鼻を鳴らす。それでも、実際居てくれるのは有り難い。KKは頼んで薬を取ってもらい、水をもらった。二回分の分量の薬を口に放り込んで大量の水で飲み下し、ため息をついてまたベッドに横になる。
「今、何時?」
六時過ぎ、とMZDは腕時計で確認する。
「お前、まだ居る?」
「うん、もうちょっと寝ていこっかな」
「起きてっからでいいから薬局行ってくれよ。薬と包帯。あと食いもん」
「いいよ」
そう言ってMZDはかけたばかりのメガネを外した。狭くて良けりゃベッド入れよと言うと、
「いやーん、襲わないでねぇ」
「……叩き出すぞ」
出来るものならやってみろとMZDが笑う。KKは、けっ、と吐き出して布団をかぶり直した。
背後の壁でかたかたと物音がした。隣の住人が目を醒ましたようだ。遠くで車のクラクションが一度だけ聞こえ、ああ、朝なんだなぁとKKはぼんやり思った。
「タオル、代えた方が良くない?」
布団にもぐり込もうとしてMZDが傷に目を止める。無意識のうちに手で押さえつけているせいか、包帯まで血がにじんでいた。多分その方がいいのだろうが、今は動くのもかったるい。KKは返事もせずに目を閉じて、奴の気配がすぐそばに迫ってくるのを感じていた。
「枕」
「いらねぇ」
痛みのせいか、頭を高くして横になると吐きそうになる。シーツの上で身をよじり、ふと煙草が吸いたいと思って目を開けると、すぐ前にMZDの顔があった。
「煙草」
「駄目。傷の治りが遅くなる」
「煙草」
MZDは知らん顔で目を閉じた。けち、と呟くと、目を閉じたままくすくすと笑う。
KKは窓へと目を向けて、そういやぁ洗濯物が溜まってたんだよなと思い出した。こんな洗濯日和の日に限って、なんだってこんな目に遭うんだか。
「……俺、思ったんだけどさ」
「なに?」
早くも眠そうな目でMZDがこちらを見た。
「どうせ死ぬんなら、朝がいいな、俺」
そう言ってKKは喉の奥でくつくつと笑う。
「明るいところで死にてえ」
別に誰にもみとられなくていい。ある日呆気なく死ぬもんだと思っている。ただ、朝日の射す場所で命を終えたい、さぞかし幸せな気分で死ねるだろう。今までのことを全部帳消しにして、そこでなら、まぁ一応は楽しい人生だったと思うことが出来る気がする――。
「そんな程度の傷じゃ死なないよ」
MZDが呆れたような顔でこちらを見ていた。
「知ってるよ」
「お前に殺された奴は何十倍も痛い思いしたんだぜ」
――やっぱ言わなきゃ良かった。
そう思いながら、気が付いた時にはMZDの首に片手をかけていた。喉仏のすぐ下、上手くやれば一発で息の根を止められる。
「少し抵抗されただけで苦しませちゃいねえよ。やり方ぐらいわかってらぁ」
「……」
「説教するんなら帰れよ」
MZDは無表情にこちらをみつめている。
不意に手が動いたと思ったとたん、いきなり傷口を殴りつけられた。危うく舌を噛むところだった。激痛と共に込み上げる吐き気をKKは歯を食いしばってやり過ごし、
「……殺す気か」
「うん」
MZDのにやにや笑いに、同じように笑い返した。
「変態」
「変人」
「ゲロかけるぞ」
「お返しにパンチ三連発」
一連のやり取りを見て、影がやれやれと肩をすくめた。
朝まだき/2006.03.21