向かう先の空は薄曇りだった。KKは日除けを指で押し上げて運転席に座り直した。この分なら昼過ぎには現地に着けるだろう。帰りはラッシュに巻き込まれなきゃいいけどなと思ったが、どうだろうか。少しこっちで時間を潰した方がいいのかも知れないが、さりとてそんな上手い具合に遊び場所があるとは思えなかった。
向かっているのは北関東の山のなかだ。せいぜいが温泉程度か。
そう言うと、
「いいじゃん温泉。風呂に浸かってキューっと一杯」
助手席でMZDが嬉しそうに声を上げた。
「お前は座ってるだけだからいいけどな」
万一飲酒運転で捕まったらどうしてくれるんだとKKは煙草に火をつける。窓を薄く開けると、ごうごうという音と共に冷たい風が吹き込んできた。速度は時速百キロ程度をキープしている。急ぐ用事ではない。ただの暇潰しだ。KKは今日までに何度も繰り返してきた言い訳を心のなかで重ねた。
「泊まりっていう手も」
「泊まらない」
「つまんねぇの」
頬をふくらませてMZDはそっぽを向く。ガムを取り出して口に放り込むと、いきなり音楽のボリュームを上げた。うるせぇよと文句を言ったが、すぐに馴れて気にならなくなった。次々に流れてゆく景色と低音の効いた音楽が心地よくて、知らずのうちにハンドルを指で叩いていた。
そういえば、作業車でない車を運転するのは久し振りだった。
「――で、この車はどっから盗んできたの?」
「レンタカーだよ!」
狭い車内で、MZDの笑い声が大きく弾けた。
二週間ほど前のことだった。仕事を終えて帰ろうとしたら榊に呼び止められた。
「詳しい場所は忘れてしまったんだが」
言葉と共に差し出されたのは一枚の地図だった。道路地図をコピーしたものに、黒のマジックで丸がされてある。
「なにこれ」
KKは地図を受け取り、しげしげと眺めた。全く縁のない土地だった。目立つ道路は数えるほどしか書かれていない。山のなかだ。
「お宝でも埋まってんの?」
「お前の『実家』だ」
驚いて見返す目が、無意識のうちに睨み付けていた。榊は涼しい顔で目をそらせた。握り潰して突っ返してやろうと思ったのに、何故か出来ないまま、再び地図に視線を落とした。
「……なんだよ、今更」
「別に」
わざとらしい呟きのあと、沈黙が訪れた。残っていた同僚が「お先に」と声をかけてくるのに手を振って、KKは煙草を取り出した。事務机に寄りかかり、煙を吐きながら改めて地図を見る。
「田舎だな。……っつうか、山じゃねぇか」
「山のなかだ。たどり着くまでに何度か道を間違えてな」
いっそのこと帰ってしまおうかと思ったと榊が言うのを聞いて、KKは思わず吹き出した。
「とっくに潰されてゴルフ場にでもなってんじゃねぇの」
「そうかも知れん。その地図もだいぶ古いからな」
「……」
「必要がないなら捨てろ。忘れないうちに教えておこうと思っただけだ」
だから、なんで今更。
そう訊きたいのをかろうじてこらえ、KKは小さくうなずいた。煙草をもみ消し、地図を折り畳んでポケットにしまうと、じゃあねと呟いて事務所を出た。
それは殺人現場を示す地図だった。今から二十年以上も前、そこでKKの父親が殺された。
犯人は榊だ。
「宇都宮だかどっかに、ホイップクリーム乗っけたパスタがあるって聞いたんだけどさ」
「食いたきゃ勝手に行ってこい」
KKは煙草の灰を叩き落とすとグラスの水をひと口飲んだ。適当に選んで入ったラーメン屋は、ちょうど昼の時間だというのに空いていた。テーブル席に着いて注文を済ませた時、KKは不意に東京へ戻りたくなっている自分に気が付いた。
行ってどうしようというのか。なにを確かめるつもりなのか。
「どういうところなん?」
預かった地図をテーブルに広げてMZDが訊いた。KKはもうひと口水を飲んで、山、とだけ答えた。
「そりゃ山なんだろうけど」
「山んなかだよ。……なんにもない、ただの山」
榊の話では洋館だったということだ。KKは地図を受け取ってからずっと当時のことを思い出そうとしていたが、殆ど記憶に残っていなかった。
広くて薄暗い廊下と、大きなベッド。温室があってガラスの一部が割れていて、そこに蜘蛛が巣を張っていた。テレビもラジオもなかったように思う。風の音と雨の音と雷鳴、そして鳥の鳴き声と羽ばたきだけを聞いて生きていた。そんな状態だったから、榊に拾われて初めて街へ出た時、周囲の騒音に怯えて泣き出してしまった。
もう二十年以上も昔の話だ。
「ジィさんも、なんで今頃こんなのくれたんだろうね」
呟きに目を上げた。それはこっちが聞きたい。KKは、さあな、と呟き返して小さく首を振った。
六才か七才の頃までKKは父親と共に暮らしていた。それは人里離れた山奥で、KKは生まれてから一度もその家を出たことがなかった。
父親といっても本当に血が繋がっていたのかはわからない。死体を拾ってきては観賞して楽しむような変質者だったから、どこからか攫われてきて、たまたま殺されずにいただけという可能性もある。
父親の顔は覚えていない。
ある晩トイレに行ったついでに居間をのぞくと、父親が殺されていた。額に空いた穴から真っ赤な血を垂らしてソファーで伸びていた。その向かいに、引きつった顔でこちらを見下ろす男が居た。たまにやって来る客ではなかった。
二人は死体をはさんで、しばらくのあいだ無言でいた。
『死んでるの?』
血が流れ落ちるのを見てKKは訊いた。ああ、と男は静かにうなずいた。
『どうしよう』
『――なにが』
『明日、食べるものがないや』
食事は誰が作ってくれるのか。心配したのはそれだけだった。男は背後に回していた手を戻して、じっとKKをみつめた。怖くないのかと訊かれたが、怖くはなかった。死体は見馴れていた。
しばらく考えたあとで、俺の言うことを聞くなら飯は食わせてやる、と男が言った。KKは迷うことなく同意した。車に乗せられてどこかへと連れていかれた。それが榊だった。
思い入れなどなにもない。あのあとどうなったのだろうと時々考えたが、戻りたいと思ったことは一度もなかった。そしてそのまま忘れていた。
なのに、一体なにを見に行くつもりなのか。
食事を済ませて再び車に乗り込んだが、KKは車を出さずにじっとハンドルを握りしめていた。MZDが地図帳を開き、ここら辺だねと該当箇所を指し示す。
「――やめた」
「え?」
「行き先変更」
そう言っておもむろに車を発進させた。来た道を逆戻りして、東京方面へと高速に乗る。帰んの? と訊く奴の言葉に、KKは首を振った。
「帰らない」
「ん? じゃあ、どっか遊びに――」
「『実家』に行く」
MZDは困ったようにこちらを見ていたが、それ以上はなにも訊かなかった。あっそ、と呟いて地図帳を後部座席に放り出す。そうして音楽をスタートさせた。リズムに乗るように、KKはアクセルを踏み込んだ。
たどり着いた時には日が暮れ始めていた。ひやりとした空気に包まれながらKKは道に立ち尽くし、窓から洩れる明かりを眺めた。砂利道だったのが舗装されている。かかとで路面を軽く蹴って、感触の違いに小さく笑った。
「あの家?」
MZDが訊いた。KKは、ああ、とうなずいて返した。
「昔のまま?」
「……そうだな」
昔のままだ。殆ど変わっていない。木造平屋の一軒家。庭だけは無駄に広くて、榊はほったらかしにしていたが、今の住人は庭仕事が好きなようだ。雑草を取り除いてキレイに整えたところに、小さな畑と、菊らしき花がわずかに見えた。玄関の脇には南天が植えられてある。
ここが「実家」だ。今は他人の手に渡ってしまったが、KKは十四才まであの家で過ごした。
「なんか、変な感じだな」
「うん?」
「別にたいして思い入れがあるわけでもないのにさ」
なのに昔を思い出そうとすると、ここが頭に浮かぶ。「その時」は確かにあったのだと、自分のなかに刻まれているのを感じる。
年取ったってことじゃないのと奴が笑った。睨み返してやったが、そうなのかも知れないとちょっと思った。
自分のなかに残る記憶。それが、その人間の歴史なのだ。
「帰るか」
家に背を向けて歩き出した。隣を歩くMZDは星がまたたき始めた空を見上げて、「ちょっと寄り道してかねえ?」と訊いた。
「どこだよ」
「行ってからのお楽しみ」
にっかりと笑い、KKから車のキーを受け取った。
そうして今、満天の星空を見上げている。さっきまで外に出ていたのだが、寒さに負けて二人とも車に戻った。山腹の駐車場に他の車はなかった。静かに音楽を鳴らしながら、奴は流れ星の数を数えている。
煙草を消した時、不意に手を取られた。そのまま引っ張られてキスをした。たまにでいいから俺のことも思い出してねと奴が言った。お前みたいにうざい奴は忘れたくてもそうそう忘れられるもんかと言ったら、むかつく! と言ってまた唇を重ねてきた。
いつものやり取り。いつもの出来事。だけど、これも確かにKKのなかに刻まれている。
あの時の人/2008.10.26