危うく最後の最後でケンカになるところだった。
 孔はどうしても見送りに来るなと言い張って聞かない。確かに高円寺から空港までは一度電車を乗り換えるだけで行けるから迷う気遣いはない。風間のマンションから高円寺の駅までだって、大通りに出てしまえばあとは一本道だ。だからなのか、
「来るな」
 孔はその一言をしつこいほどに繰り返した。
 上海へ飛ぶ飛行機は昼頃に出るという。逆算すると朝の八時には風間のマンションを出なければならない。
 マンションで見送りだと八時に別れることになるが、空港までついていけばもう三時間ほど長く一緒に居られる。一年振りの再会で、しかも次はいつ会えるのかお互い定かでないこの状況に、たった三時間とはいえそれは貴重な三時間だ。
「何故だ」
 風間は困惑してというよりも、もはや言い合いに疲れてベッドに腰をおろし、黙々と荷物の整理を続ける孔をみつめた。
「風間は練習がある。休むのは駄目だ」
「だからそれは時間を変更してもらったと言ったではないか。午後からでも構わないと監督が言ってくれたんだ」
 海外から遊びに来ている友人を見送りに行きたいと相談したら、監督の仲村は快く遅刻を承諾してくれた。別にサボるわけではないのだからなにか問題があるとは思えない。なのに孔は、
「駄目だ」
 そう言い張って聞かないのだった。
 風間は反論しようとして口を開きかけ、だがこれまでに散々言葉を尽くしても聞き入れてもらえなかったことを思い出して口を閉じた。
 しばらくのあいだ、孔がスポーツバッグに着替えやらなんやらを詰め込む様を黙ってみつめ、かすかに首を振った。小さくため息をつき、コタツの上のグラスを拾い上げて底に残っていた烏龍茶を飲み干す。そうして食事が終わったままほったらかしになっている食器を片付け始めた。
 一人暮らしを始める際、一応ひと通りの食器は買い揃えた。だがそれは当然一人前で、だから孔が来ることがわかった時に新しく飯茶碗と味噌汁椀を買い、箸を買い、グラスを買った。孔の為だけに揃えた食器だった。明日を過ぎれば、次はいつ使ってもらえるのかわからない。もしかしたら二度はないかも知れない――その可能性は否定しきれない。現に今、そうなりつつある。
 気まずいながらも風間はどうすればいいのかわからず、立ち上がって食器を台所へと運んだ。流しに置いて残りを運ぼうと振り返ると、孔が残りの食器を片付けてくれていた。水道の蛇口をひねって水を出し、孔が食器を置くのに「ありがとう」と呟き返す。
 そのまま孔は流しの台に寄りかかるようにして、しばらくのあいだ立ち尽くしていた。
「…明日、上海に帰る」
 まるで初めてそれを伝えるかのように孔が言った。風間は食器を洗いながら「ああ」と答えた。
「上海と日本は近い。だけど、遠い」
「――そうだな」
 孔が言いたいことはよくわかる。飛行機で飛べば実質三時間もかからずにかの国へたどり着くが、入国の為にはパスポートを用意し、前もってビザを申請し、飛行機を予約しなければならない。電車に乗ってちょっと隣の町へ、というのとはわけが違うのだ。
「次は、いつ会える」
「…今はなんとも言えないな。お互いの予定もあるし、金銭の問題もある」
 風間はこの三月に大学を卒業して四月からは実業団の活動一本に絞られるのだが、それがどの程度自由さを保てるものなのかはまだわかっていなかった。孔自身もジュニアユースでの指導という仕事があるから、たとえばこちらの身が空いたからといって勝手に押しかけるわけにもいかない。出来れば一年とあいだを置かずに会いたいと思いはするものの、それは今のところ「実現出来たらいいな」という種類の希望として棚に上げておくしかないものだった。
「そうだろ? いつ会えるかわからないな?」
 孔はまるで鬼の首でも取ったかのようにそう言い募った。風間は驚いて振り返り、まじまじと孔の顔をみつめた。その視線を受けて孔は気まずそうにうつむき、
「…あのな、」
 そう言いかけて、また口を閉じてしまう。
「なんだ」
 どうやらようやく理由を話してくれそうなのがわかったので、風間は食器を洗いながらおとなしく孔の言葉を待った。どうあがいても明日までしか時間がないのだから、出来る限り嫌な気分は残したくない。それは互いのあいだに共通した想いだった。
 孔はしばらくためらったのちに、いささか渋い顔つきになってぽつりと呟いた。
「泣くのが、嫌だ」
「……」
「電車に乗る。日本が少しずつ遠くなる。寂しい、悲しい。――風間が居ると、余計に寂しい」
「孔――」
「だから、明日はここで別れる」
 そう言って孔は玄関を指差した。
「ここで、笑って、別れる。最後は笑う。絶対に」
 そう言う孔が既に泣きそうな顔をしていた。もうこれ以上のことは聞くなとその顔が語っていた。風間は言葉が継げずに流しっぱなしの水のなかに手をさらし、ふいと孔が顔をそむけて部屋へ歩いていくのを見守った。
 追い詰めるようなことをしてしまったのかと少し後悔した。だからしばらく黙ったまま食器を洗い、片付けを終えてから部屋に振り返って「なにか飲むか?」といつものように聞いた。
「烏龍茶」
 当然、という顔で孔は答える。ベッドに腰かけたままの格好で横になり、枕を両腕に抱え込みながらこちらをみつめていた。
 部屋に戻ると孔は体を起こしてグラスを受け取った。風間はベッドに寄りかかるようにして床に腰をおろし、孔の足へとそっと身を寄せた。
 伸ばされた孔の手を握り返して頬に当てる。そのまま胸元に抱き込むと、孔は小さく苦笑しながら隣に座り込んできた。
「すまなかったな」
「…もういい」
 二人は互いに照れたように笑い、そっと唇を触れた。そうしてまた言葉を失ってしまう。
 どんな気休めの言葉も慰めも、口にしたとたんにむなしくなるのがわかっていた。明日は永遠の別離ではない。だけどそれは、またしばらくこんなふうに触れ合うことが出来なくなるという事実を、なんらやわらげてもくれなかった。この先がどうなるのか、確かなものは相変わらずない。確実なのは「今」だけだ。
 風間は握り合った孔の手の温もりを味わい、首筋に触れる呼吸の湿り気を味わった。肌に軽く唇を触れて顔を上げ、真っ黒な、ビー玉のような目をみつめる。
 真っ向から見られて、孔は照れたように視線を外した。小さく笑い、なにかを言おうとするように顔を上げながらも、風間の視線に負けてまた目をそらしてしまう。
「なんだ?」
「…別に」
 握り合った手を持ち上げて風間の手に唇を触れたあと、そっと顔を寄せてきた。何度か唇を重ね、そのキスの合い間に、二人はぽつりぽつりと言葉を交わす。
「また、来る」
「ああ。私も上海へ行こう。君が生まれ育った国がどんなところなのか、一度見てみたい」
「広くて驚く」
「楽しみだ」
 ――いつ、という確実性ばかりがそこにはないまま。


 そうして別れの朝がやって来る。
 いささか寝不足気味の目をこすりながら二人は食事を終えた。時間の制限がある孔の為に洗面所は明け渡してやり、そのあいだに風間は食器を片付け、自身も出かける用意をする。
 荷物を抱えて部屋のなかを見回し、忘れ物がないことを確かめた孔が玄関に立ったのは七時五十分。
 風間はまだ部屋着のまま玄関まで見送りに出た。荷物を床に置いて靴を履き、振り返った孔に風間は、「気を付けて」と呟いた。
「これ、ありがとう」
 そう言って孔は左手を持ち上げてみせた。薬指の根元に、銀色の素っ気無い指輪がはめられている。風間は思わず自分の左手に視線を投げ、そこに同じく指輪がはまっているのを見て今更ながらに照れたように笑った。
「受け取ってもらえなかったらどうしようかと思ったよ」
「泣かないで済んだ」
「まったくだ」
 二人は顔を見合わせて笑い、その瞬間、孔の目から涙がこぼれるのを見て風間はその身を抱き寄せた。互いに痛いほど抱き合い、つられて泣きそうになって、あわてて息を呑む。気持ちを落ち着かせながら最後にかける言葉を探したが、なかなか上手い言葉はみつからなかった。
 孔が顔を起こすのにあわせて腕の力を抜いた。まだ抱き合ったままの格好で、孔がはにかみながら笑うのを見てそっと唇を重ねる。
 涙の跡を拭ってやり、風間は笑顔でその言葉を口にした。
「じゃあ、また」
 孔は満面の笑みを見せ、大きくうなずいた。


いつものように/2005.07.18


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