風間はビールの缶を持ったまま立ち上がり、カーテンの隙間に手を差し込んで窓を開けた。
 雨上がりの湿った風がほろ酔い加減の頬に吹きつけて心地良い。風のなかにかすかに苦い草の香りを嗅ぎ取って、この辺りに草むらなどあったかなと思いながらビールを飲んだ。
 ――と、不意にブロック塀の上へ黒猫が飛び下りてきた。風間は驚いて息を凝らし、じっと猫の後ろ姿をみつめた。黒猫もこちらに振り返って互いに三秒ほどみつめあったのち、向こうの方が先に興味を失って視線をそらせ、道路へと駆け出していった。
「――どうした」
 声に振り返ると、トイレから戻ってきた孔が不思議そうな顔つきで立っていた。
「猫が居た」
「ネコ?」
 孔はしばらく考え込んだあと、「これか?」と言って片手を縮こませ、猫の鳴き声を真似てみせた。
「そう、それだ」
 風間は笑いながら窓際に腰をおろし、孔の腕を引いて隣に座らせた。
「日本は猫が多いな。夜になるとうるさい」
「そういう時期なのかも知れん」
 そう言って風間はビールを飲み、ふと孔の横顔をみつめた。
「今度、外で食事しないか。私がおごろう」
「風間が? 何故だ」
「いつもご馳走になってばかりで申し訳ない。どこか美味い店をみつけて、飲みにでも行こう」
「気にするな。一人も二人も同じだ」
「そうは言うがな」
 風間は苦笑して、首筋に軽く唇を触れた。孔は驚いて少し身を引いた。目を見ると、照れたように笑いながらうつむいてしまう。
「ここで、こうしているのがいい。気が楽だ」
「まあ確かに、外でするわけにはいかないな」
 そう言って手を握ると、孔もゆるく握り返してくる。風間は缶をテーブルに置き、あらためて孔の体を抱き寄せて唇を重ねた。孔は一瞬戸惑うような素振りを見せたが、やがて腕を伸ばして背中に抱きついてきた。
 時折洩れる小さな声を風間はいとおしむように聞いている。唇を離すと、うっすらと開けた目のなかで、ビー玉のように真っ黒な瞳がわずかに揺れていた。
「…酔ってきた」
 ぽつりと孔が呟いた。
「お前のせいだ」
 そう言って照れたようにぐいぐいと風間の喉元を押しやった。風間は苦笑してその手を押さえ、
「私のせいにされても困る」
「お前が悪い」
「そう言うな。嫌な気分にさせたのなら謝ろう。もう二度としない」
「……その言い方は、ずるい」
 照れたような、拗ねたような顔で孔はうつむき、押さえつけられた手を握り返してじっと黙り込んでしまった。風間は微笑を洩らして孔の顔をのぞきこんだ。
「怒ったか?」
「…怒ってない。だけど、一回謝る」
「済まなかった」
 そう呟いて、また唇を重ねた。
「今度から事前に許可を取るというのはどうだ」
「うるさい、黙ってやれ」
 ぶっきらぼうにそう言うと、孔の方から抱きついてきた。風間は笑って唇を重ね、暗がりで響く猫の鳴き声を遠くに聞きながら、そっと窓を閉めた。


風間:大学二年五月


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