夜中に怖い夢を見て、孔は目を醒ました。
  まだ心臓がばくばくとうるさいほどに鳴っている。
  ベッドのなかで手を伸ばして、
  こんな時に限ってあいつが居ないんだと何故か怒りを覚えた。
  怖くて、
  真っ暗ななかで、明かりを求めて窓の方へと向きを変える。
  月明かりに照らされて、桜の枝がそこにある。
  孔はそっと手を伸ばして小さな花を撫でた。
  もうじき全部散ってしまう。
  ――その前に、一度あいつに電話をしよう。
  『一緒に、桜の花を見ないか』
  会いたいなんて、口が裂けても言うものか。
  孔は意地のようにそう思う。
  怖いからそばに居てくれなんて、絶対に言ってやるものか。
 孔:辻堂コーチ二年目四月


  ――部屋の掃除が一番面倒くさい。
  風間はベランダにふとんを干しながらやれやれとため息をつく。
  寮住まいだからたいして荷物があるわけではないが、
  それでも掃除機など月に一度掛ければいい方だ。
  ――誰か適当でいいから、掛けてくれないものだろうか。
  こんな面倒なことを、よく孔はずっと続けていたなと、感心してしまう。
  『風間も私と同じに暮らす。すぐに覚える』
  あどけなく笑っていた孔の顔を思い出す。
  今頃は上海で生徒たちと楽しくやっている頃だろうか。
  そんなふうに孔のことを思い出す時、
  ふと視線はミリオンバンブーへと動く。
  「水をやらないとな」
  風間は呟いて、そっと笑いかけた。
 風間:大学四年七月


  ぶらぶらと、
  意味もなくまたスマイルは神社へと足を運ぶ。
  もうここに来ても、望んだ誰かに会えるわけじゃない。
  それがわかっていても、つい足が向いてしまう。
  お社の前の短い石段に腰をおろして、辺りの風景に目を凝らす。
  変わらない街の風景が眼下に広がる。
  そして、海。
  果てし無いあの海を泳いでいけば、彼に会えるのだろうか。
  ここで自分の腕に寄りかかって、いつものように昼寝をしていたあの人に。
  ふとため息をついて視線を境内に向けると、
  水仙の花が咲いていた。
  ――そういえば、あの時も咲いてたな。
  『頭きたら怒りゃいいし、おかしきゃ笑えよ』
  スマイルは耳の奥に残るその言葉にふと小さく笑い、
  「努力します」
  寂しい気持ちと共に、そう呟いた。
 スマイル:大学一年四月


  煙草の匂いも、もう嗅ぎ慣れた。
  ペコはくわえ煙草でぶらぶらと道を行く。
  暑い日はまだ続いている。
  ――俺、マジで高校辞めよっかな。
  このままでは通い続ける意味がわからない。
  ふぬけたように過ごす日々。去年の幸せがうそのようだ。
  ――去年?
  なにしてたっけ。
  ふと鼻先に香るキンモクセイの匂いに、ペコは立ち止まる。
  垣根に植えられたキンモクセイが、これでもかというほどに咲いている。
  この道はタムラへと続いている。
  ――ああ、そうだ。
  部活も引退してしまって、
  スマイルと一緒に毎日のようにタムラで打ち合った。
  こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。
  「……ちっ」
  ペコはまた道を行く。
  過去の幸せが、おいでおいでと、うるさいぐらいに香っている。
  知らん振りをするように、ペコは思いっきり煙草を吸い込んで、むせた。
 ペコ:片瀬高校一年十月


      拍手してくださったみなさん、ありがとうございました!


こぼれ話入口へ