夜のスマイルはなかなかペコを寝かせてくれない。
といっても別にそっちの意味で寝かせないわけではなく、文字通りスマイルがなかなか寝付かず、いつまでもペコにちょっかいを出す為に、
「俺今夢見てたのによ!」
とか、
「明日もガッコがあんだからさぁ」
とか、普段のペコからはとても聞けないような台詞が幾つも飛び出ることになる。
「おとなしく寝ようぜぇ、たまには」
スマイルの部屋で一緒のベッドにもぐりこみ、暗がりに慣れた目で、スマイルのメガネのかかっていない顔をぼんやりみつめながらペコが言う。その声は半分以上疲労と睡魔に襲われており、さすがにそこまでになるとスマイルもおとなしくなる。
「あんだっていっつもそうなのよ」
スマイルに髪を梳かれながら、ペコは寝ぼけた声でそう聞いた。
「…もしかして、まだ興奮してんの」
「違うよ」
あらためてそう聞かれると、今から興奮しなおしても僕は別に構わないんだけどなぁとスマイルは他人事のように呟き、
「ゆっくりペコに触れるの、この時ぐらいなんだもん」
「いや、別に触るのは構わねぇんだけど…」
おかしなところを触ったりしなければ、の話だが。
二人がこんなふうにして一緒のベッドで眠るようになってから、もう一年近くが経とうとしている。部活も引退し、あとはそれぞれの進路に向かって努力あるのみだ。ある意味そばに居ながらも、今が一番遠くに離れてしまっているのかも知れない。
そのせいかこの頃のスマイルはやたらと執拗にペコを求めることが多かった。渡独が決定的となった今、ペコだって出来るだけそばに居てやりたいとは思っている。スマイルの為であり、自分の為に。けれどそのお陰で要らぬ睡眠不足までしょいこむのは、
――そりゃあ勘弁っすよ。
今だって毎日トレーニングはしているのだから。
ふう、と小さくため息をついて、ペコはふとんのなかでスマイルの温かい体に身を寄せる。そうして背中に腕を回して軽く抱きついた。スマイルはそれに応えるようにしてペコの体を抱きしめ、なにも言わないままそっとキスをしてくる。
やさしいのだか意地悪なのだか、ペコにはいまだにこの男が謎だ。
「一日四十八時間欲しい」
不意にスマイルが呟いた。
「あん?」
「今の倍、時間が欲しい。普通に学校行って勉強する以外の時間は、ずっとペコとこうしてたい」
「……はっずっかしぃ」
暗がりのなかで、スマイルが少しむくれたのがわかった。ペコはくすくすと笑いながら、抱きついた腕を伸ばしてスマイルのえりあしをもてあそぶ。指で軽く引っぱると、お返しとばかりにスマイルはペコのおかっぱ頭に手を突っ込んでぐしゃぐしゃに掻き回した。
時々、スマイルの匂いが鼻につく。それがなんの匂いに似ているのかはわからないけれど、いい匂いだなぁとペコはいつも思う。そうして、匂いにつられるようにしてスマイルの首筋に唇を押し当てて、確かに四十八時間もあったらすっげーいいよなぁとぼんやり考えた。
「ちょっと待て」
「なに」
スマイルの腕から逃れてペコは顔を上げた。
「残った時間、ずっと俺はいじめられんのか?」
「…それがお望みなら」
「――俺、帰る」
「冗談だよ」
スマイルはあわててペコの体を抱きなおした。
「そんなことしなくても、こうしてるだけでいいよ…」
「……我慢出来なくなる癖に」
「それはあなたが悪い」
「俺のせいか!?」
今度はスマイルがくすくすと笑い、
「どうだろうね」
そう言って、またキスをした。
はっきりと断定しないところが、この男はずるい。もはや謎というよりは不可解と言った方が近いのかも知れない。なんだかごまかされてしまったような気がするが、それでもスマイルの腕のなかは心地良かった。ペコはそっと目を閉じて、また開き、確かにここにスマイルが居ることを確かめる。
離れるのは、やっぱり辛いのだろうか。ペコはぼんやりと考える。こんなに近くに居ても、時々寂しくて、何故か不意に泣きたくなるような気になってしまうのに。
――ホントに四十八時間あったとしたら。
それはそれでまた辛いんだろうなと、眠りに落ちながらペコは思った。
そんな翌朝は、いつもペコの立てる物音で目を醒ます。本人は一応気を遣って静かに仕度をしているつもりなのだろうけれど、スマイルの耳はいやに敏感になっており、いつだって必ず目を醒ましてしまう。
ペコはこっちに背を向けてズボンのベルトを締めていた。スマイルはしばらくのあいだ黙ってその様子を眺めていたけれど、
「ペコ」
「うおうっ」
不意の呟きに驚いてペコが奇声を発した。
「…びびったぁ」
「なにしてるの」
「あにって、帰る仕度ですわよ、旦那」
「……」
「出さなきゃいけねぇプリントがあんだわ。取りに戻る」
「……」
「…あに拗ねてんだよ」
「拗ねてないよ」
そう言いながらも、スマイルはまるで子供のように口を尖らせ、うろうろとあちこちに視線をさまよわせていた。ペコはしばらくのあいだ黙ったままそんなスマイルを眺めていたが、やがて小さくため息をついて、不意にベッドの脇に座り込んできた。
「お前さぁ」
そう声をかけられて、スマイルはようやくペコに視線を定めた。
「ホントに、どうすんのよ、俺が居なくなったら」
「…平気だよ」
「うそこけ。それが平気ってぇツラかよ」
ペコはそう言いながらスマイルの頭を乱暴に撫でた。
「何事も練習」
「……?」
「いっつも練習してんだよ。後ろ髪引かれながらお前置いて出ていく練習」
「…置いていかれる練習しろってこと?」
「まあ、練習っつうか、慣れっつうか――」
でも、それとこれとは全然違うとスマイルは思う。
置いていく方は意識的だ。たとえ眠っていたとしても、そこにはきちんと自分が居る。後ろ髪を引かれようが、どんなに辛かろうが、置いていく対象がそこにある。
けれど置いていかれるのはもっと恐ろしいことだ。目が醒めたらベッドには自分以外の誰も居なくて、夕べ腕のなかにペコが居たのはもしかしたら夢だったんじゃないかと恐怖すら覚える。知らないあいだに見捨てられて、実際にはペコはもうドイツへ行ってしまっているんじゃないかと――あの幸せは幻だったのかも知れないと愕然とする、その恐ろしさ。
だからスマイルは、ペコに呆れられながらも、夜なかなか寝付けないのだ。目を閉じて、次に目を開けた時、ペコの姿が煙のように消えてしまっていることが多々あった。ドイツへ行ってしまうことはもうわかっている。それなりに覚悟もしているつもりだ。だけどそれと、朝に姿を消しているのとは、全然別問題だ。
――でもきっとペコにはわからないだろうな。
あきらめと共にスマイルはそう思う。もしかしたらペコにはペコなりの辛さがあるのかも知れない。それを知らずにわがままを言っているのだとしても、立場が違うのだ。確かめようもない。
「わかった」
ペコに頭を撫でられながらスマイルは憮然と呟いた。
「でも、今度から絶対に僕を起こしてね」
「わざわざ?」
「寝てるあいだに居なくならないで。すごく嫌なんだよ、一人で目を醒ますのって」
「…わぁった」
スマイルは腕を伸ばしてペコの体を抱き寄せる。ペコはスマイルに覆いかぶさるようにして身を伏せ、そのままじっと頭を撫で続ける。しばらくのあいだ、互いに言葉はない。
やがてスマイルは身を起こし、今更のようにペコにキスをした。
「またあとでな」
「うん」
そうしてスマイルはベッドのなかからペコを見送る。
きっと離れるのはすごく辛いに違いない。誰も居なくなった部屋のなかでスマイルはぼんやりと考える。だけど今一番辛いのは、学校で会った時、普通の友達の顔をしていなければいけないことなのだと、二人は自覚していなかった。
「…ご飯、食べよ」
いささか肌寒い空気のなかで、メガネをかけてスマイルはベッドを抜け出す。無意識のうちにため息をついてしまうのは、そんな辛さがあるからこそ、二人きりで会えた時が嬉しいのだとも知らずにいるからだ。
もどかしいぐらいに無自覚で、全てがはっきりしない、とある日の朝。
とある朝/2004.05.30