暑さ寒さも彼岸まで――そんな言葉があるのは知っていた。けれど本当に言葉どおり彼岸が来たら涼しくなってくれるかというと、そこまで上手く出来ているわけじゃない。厳しい残暑に毎日見舞われながら、まもなくカレンダーの上だけでむなしく十月を迎えようとしている。
「え?」
スマイルはかばんに荷物を詰め込みながらペコの言葉を聞き返した。
「だからさ、今日久し振りにアクマと飲むんよ。お前も来ねえ?」
「…僕、予備校あるんだけど」
「じゃあ終わってっから来いよ。電話くれりゃ駅まで迎え行ってやっからさ」
そう言うと、じゃあねーん、と嬉しそうに鼻唄を歌いながらペコは教室を飛び出していってしまう。スマイルは呆気に取られたようにその後ろ姿を眺め、やれやれと短くため息をついてかばんを肩にかけた。
ペコとしては昔どおりの幼馴染みで集まる感覚なのだろうが、誘われたからといって、はいそうですかと素直についていこうという気にはさすがになれなかった。
ペコは忘れてしまったのだろうか。二年前の自分の姿を。
『なんでだよ! なんで俺じゃなくて――』
佐久間の叫びは、まだスマイルの耳の奥に残っていた。あれから二年。まだ一度もまともに顔をあわせたことがない。別に言ったことを後悔してはいないけれど――間違ったことを言ったとも思っていない――だけど、まだ少しだけ、顔はあわせづらい。
それともわざとなのだろうか? ペコは気を利かせて誘ったのだろうか。
――そこまで気が回る人じゃないか。
学校の正門を抜けながら、スマイルはふと苦笑した。多少光線の弱まった太陽が西に傾き始めているのを薄目で眺めて、さてどうするかとスマイルはぼんやり考える。
とりあえずは一度家に戻って夕飯だ。それから藤沢まで出て予備校へ行き、終わったあとは――まあ、その時考えよう。
江ノ電の線路を抜けながら、そうか、もう二年も経つんだなと、今更のようにスマイルは思った。
なんだかあっという間だった気がする。今年の夏のインハイ本戦まで、本当に卓球漬けの毎日だった。ペコに誘われて卓球を始めて、それからほぼ十年近く。楽しいと思って卓球が出来たのはそのあいだの数年でしかなかったけれど、振り返ってみれば、ひどくいい経験だった。うちの大学で卓球を続けないかと誘ってくれるところも幾つかあったが、スマイルは全て断わってしまった。
もうなにかにしがみつく必要はなくなった。世界は広くて非常に変動的で、悪意があれば好意もあり、自分自身ですら誰かにとっては悪意となり好意ともなりうる。それがわかっただけで充分だ。
ただ、まだ放りっぱなしの問題が、一つだけ残っている。それが佐久間のことだった。
あの日、駅前で起こしたケンカ騒ぎがもとで海王を退学になったと聞いている。時々ペコが情報を耳に吹き込んでくれるので、ぼんやりとは現状を知っていた。どうしているかと気になる時もあった。が、こちらからわざわざ連絡するほどのこともなく、その理由も思いつかなかった。
ここまで引きずってしまう原因がどこにあるのか自分でもわからないまま、スマイルはやってきた江ノ電に乗り、ともかくは予備校だと自分に呟いてみせる。
少なくとも、歩こうと自分で決めた小さな道は、まだ目の前に続いている。
さっきからペコは床に大の字になって早々イビキを掻いていた。もとからさほど酒に強いわけでないことは知っていたからそのうち寝てしまうだろうとは思っていたけれど、それにしたって早すぎじゃねえのかと、佐久間はテーブルの向かいでビールを飲みながら思っている。
「お仕事お疲れっす」
そう言って缶ビールを合わせたのが二時間ほど前だったろうか。あちこちにビールの空き缶を転がし、そのなかで顔を真っ赤に染めて寝入っているペコは、本当に同い年なのだろうかと思わず首を傾げたくなるほど子供っぽい寝顔をしていた。
「俺もこんな顔してたんかねぇ…」
煙草に火をつけながら佐久間は呟いた。
海王を退学となったのが二年前の十月。そしてただ飯喰らいは出ていけと実家を追い出されたのが年明け早々だった。仕方ないのでボロアパートを借りてもらい、以来仕事をみつけてずっと独り暮らしを続けてきた。
たまに町中で同級生に会うことがあったが、皆一様に幼い印象を受けて驚いたものだ。それが養ってもらっている甘さとも言うのだろうし、見方を変えれば「余裕がある」のだろう。正直うらやましいと思わないでもないが、ずっと学生で居たらわからなかったことが山ほどある。それらを知ることが出来ただけでも良かったと思っている。
本音を言えば、もう少し遊んでいたかった気もするが。
煙を吐き出してビールの残りを飲み干そうとした時、不意に床が震えた。驚いて振動の出所を探ると、ペコの携帯がマナーモードのまま呼び出されていた。
「おい、携帯鳴ってんぞ」
佐久間はそう言ってペコの足を蹴りつける。が、ペコは嫌そうにうなり声を上げるばかりで目を醒まそうとしない。しばらく待ってみたが電話は止まず、ペコも寝入ったままなので、仕方なく佐久間は手を伸ばして携帯を拾った。
『smile』
誰が見ても、それが人のあだ名だとは想像もつかないその名前が、画面に大きく表示されていた。佐久間はその文字を見たとたんに携帯を捨てようとした。しかし何故か手放すことが出来ず、結局携帯を握ったまま、振動が収まるのを辛抱強く待った。
スマイルも案外しつこかった。結局十回ほど鳴らされただろうか。突然電話の震えが止まった時、思わず安堵のため息をついていた。そんな自分に気付いて、佐久間はけっと小さく吐き捨てる。
――バカバカしい。
なにを今更。
『――なんで俺じゃなくて』
煙草の灰を叩き落してから、佐久間はペコの携帯を放り出した。そうして自分も床に横になり、ぼんやりと煙草をくゆらせた。
あの頃見えなかったものが、今、あちこちではっきりと姿を現している。
世界は想像していたよりもずっと広く、思いも寄らない価値観がごろごろと転がっている。狭い世界に居たものだと苦笑してしまうほど未知のものとたくさん出会った。そのたびに、本当に俺はガキだったんだと、強く思う。――もっとも、だからといってあの頃の自分を否定するつもりもなかったが。
あの時はあの時で、自分なりに懸命だった。傍から見ればどうでもいいことに囚われて、どうにかしてそこから抜け出そうと必死だった。自分なりに納得出来る答えが欲しかった。スマイルは、その答えを手に入れるきっかけをくれた。ある意味感謝している。
けど、だからといって素直に礼が言えるわけじゃない。結局のところ自分は奴に負かされたままだし、それに――。
また携帯が震えだした。
スマイルからであることを確認して、佐久間は通話ボタンを押す。
『ペコ?』
「……ペコは寝てるよ」
受話口の向こうで小さく息を呑む音が聞こえた。
「叩き起こすか?」
『…いいよ、別に』
少しだけ、気まずい沈黙が流れた。
「俺が誰だかわかってるよな?」
今更のように佐久間は確認した。
『アクマだろ』
「おお」
『…久し振り』
「…おぉ。久し振り」
言いながら煙草をもみ消した。
「今、どこ居んだよ」
『藤沢。予備校終わって、これから帰るところ』
「なんだ、受験すんのか」
『うん、一応ね』
「そっか。まぁ、頑張れや」
『うん』
そうしてぽつりと、ありがと、と呟く声が聞こえた。
その呟きがスマイルにしては妙にやわらかい口調で、思わず「今から来ないか」と誘いをかけそうになり、佐久間はあわてて別の言葉を口にした。
「なんかペコに用事か?」
『え?』
「いや、電話してきてんだからさ。伝言あれば伝えるぞ」
『…別に、用ってわけじゃ――』
夜になっても蒸すような空気は変わっていない。電信柱に寄りかかって電話をかけながら、スマイルはふと喉の渇きを覚えた。多分暑さのせいだ、スマイルはそう自分に言い聞かせる。勿論アクマと話をしているからじゃない。
予備校が終わって、飲み会をしている筈のペコに電話をかけたのは、行かないよと断りを入れる為だった。もっと早くに連絡を入れても良かったのだが、何故か今まで悩んでしまった。まさか佐久間が電話に出るなど予想もしなかった。
少し気まずい空気のなか、それでも久し振りに聞く幼馴染みの声は相変わらずで、知らずのうちにスマイルは笑っている。
「ペコ、寝ちゃったんだ」
『おお。イビキ掻いて寝てら。相変わらず酒よえぇな、こいつ』
「他には?」
『あ?』
「他には誰か居ないの」
『居ねえよ。二人で飲んでんだ』
もっとも今は一人だけどなと佐久間が笑った。その笑い声を聞いた瞬間、ふと、あの時はごめん――そう言いそうになった。
『スマイル?』
佐久間の声に我に返り、うん、と答えながらもスマイルは口をつぐむ。ペコ以外の人間にその名前で呼ばれるのは、ずいぶん久し振りのことだなと思いながら。
謝る類のことだろうか。あの時はお互い必要なものを見ていた。そして必要なことをした。それだけの話だ。今更謝られたところで、佐久間もきっと返事に困るに違いない。――それに、
『そういやぁお前、今月誕生日じゃなかったか』
思いも寄らない言葉に、スマイルはまた言葉に詰まった。
『…違ったか?』
「ううん。違わない。今日だよ。今日が誕生日」
『そっか。…おめでとさん』
「…ありがと」
二人はなんとなく小さく笑いあった。
「じゃあ、切るね」
『おお。じゃあな』
「うん――」
そうして呆気なく通話は途切れた。
スマイルは携帯をしまいこみ、駅に向かって歩き出す。珍しく人の多い夜で、普段なら嫌な気分になりそうなものなのに、不思議とあまり気にならない。
改札口を抜けながらスマイルは思う――お互い、あの時のことはきっと忘れないに違いない。共に目指すべきものを見失い、初めて自分の足でおぼつかないながらも立ち上がり、なんとか歩こうと懸命に歯を食いしばってぶつかりあったあの日。
わざわざ話を蒸し返さなくても絶対に忘れない。…それに、そんなことを一々口に出して言うほど、お互いが遠い存在でもない。
佐久間の普通の声、相変わらずの言葉。それに答える、自分のいつもの声。結局変わりながらも変わっていない。多分、それでいいんだとスマイルは思う。そうして何故か嬉しくなって、ホームに滑りこんでくる電車をみつめながら、スマイルはまた小さく笑った。
やじろべえ/2004.06.11