「シュン? ガーシュン!?」
 母親の叫びが部屋の窓から入り込んできていた。ガーインはベッドに横になったまま、ただ、やかましいなと思っている。
「いいよ母さん、無理に探さなくても」
 ガーインはそうベッドから叫ぶ。やがて母親の声は途切れ、代わりに苛立たしげな足音が近付いてきた。
「だってお前…」
 戸口に姿を現した母親は季節外れの暑さにうだっており、普段の不幸そうな顔が更に不機嫌にゆがんでいる。
「せっかく最後の昼食だっていうのに」
「最後ったって、二度と帰ってこないわけじゃないんだからさ」
 ベッドの上で頬杖をつきながらガーインは笑った。
「放っておけよ。どうせまた拗ねてるんだろ」
「…あんたがそれでいいなら…」
「行く前に近くを探してみるよ。遠くに行ってるわけじゃないと思う」
「当たり前だよ、まだあの子は八つなんだからね」
 母親はそう言って不意に部屋を出ていった。ガーインは再びベッドに横になり、どうせあいつが幾つになったって子供にしか見ない癖にと、ふと苦笑を洩らす。世の母親は子供がどんなに大きくなっても自分の所有物だと勘違いしているらしい。あとに生まれた子供は特にそうだ。
 どうやってシュンの不機嫌さを晴らそうかと考えて、ガーインは思わずため息をついた。
「おい、飯にするぞ」
 父親の声が飛んできた。ガーインは「うん」と答えてベッドを抜ける。
 テーブルに着くと、父親がビールを冷蔵庫から出してきた。そうして瓶のふたを開けてガーインの方へと押しやる。
「飲んでいけ。祝いだ」
「…うん」
 ガーインは小さく答えて瓶を手にした。友達連中と飲むことは多かったが、家で飲んだことはなかった。思わず父親の顔をうかがうように見てしまい、ガーインはわざとらしく瓶を大仰にあおった。
「叔父さんに迷惑をかけるなよ」
 箸を伸ばしながら父親が言った。
「わかってるよ」
「人間、堅実に生きるのが一番だ。忘れるなよ」
「ああ」
 それは小さい頃からガーインの耳に吹き込まれてきた父親の決まり文句だった。言葉どおり父親は堅実に、そして地味に生きてきた。多分これからもそうするのだろう。うちを出られると思うと、本当にほっとする。
 叔父の家にやっかいになることを決めたのは年明けすぐのことだった。なにをしようという目的があったわけではなかったが、吹き溜まりのようなこの家に居るのが嫌になったのだ。足元に小さく続く細い道からはずれないことだけを考えて生きる「堅実な」父親を見ていると、一生何処へも行けなくなるような気がしていた。動けるうちに逃げてしまえとガーインは思ったのだった。
 そのことは誰にも話していない。けれど、弟のシュンは敏感に察知しているらしい。ここ数日、まともに口を利いていなかった。掛け始めたメガネの奥でじっと言葉を飲み込みながら、むくれたようにどこかへと消えてしまう。今日だってそうだ。
 向こうから声をかけてきたのは三日前が最後だった。裏の川に死体が流れ着いたと聞いて、
「兄ちゃん、一緒に見に行こうよ」
 そんな気持ち悪いことと思ったが、結局ガーインは折れた。小さな手に引かれて川原へ行った。警察はまだ来ておらず、人だかりが出来ていた。シュンは群がる人の波をかきわけて輪の中心へとガーインを連れていった。
 誰かが死体の上に白い布をかけていた。シュンはその布の端を持ち上げようとした。「触るな」と怒ると、ちえっ、と舌打ちし、そうして一瞬の間ののちに布を引っぺがしてしまった。
「シュン!」
 死体は紫色に変色していた。ガスのせいで顔がむくんでいるのが見えた。女だった。
「このバカ!」
 シュンはなにが楽しいのかけらけらと笑っている。ガーインはあわててシュンの手から布を奪って放り出し、人だかりのなかから連れ出した。シュンはしつこくガーインの手を引き、まだ見たいと駄々をこねた。
「お前なんかが見るもんじゃない」
 ガーインは弟の為にそう言い聞かせた。けれど、本当は自分に言い聞かせていたのだ。もっと見ていたいのは、自分の方だった。
 俺たちは本当に似ている、とガーインは思う。歳が七つも離れているせいかあまり似ていない兄弟だとよく周りから言われた。けれど、それは違う。本質的なところで二人はひどく似ていた。そしてシュンの方が子供である分、その表現の仕方は奔放だった。
 シュンがバカなことをしでかすたびにガーインは怒ったが、心のどこかで弟が自分の代わりを務めてくれることを、嬉しいともうらやましいとも思っていた。自分が失ってしまった自由をシュンはまだ持っていた。
 ある意味、ガーインは片割れを置いていこうとしていた。シュンがむくれるのも当然だった。
 食事を済ませたあと、ガーインは家の近所を回ってシュンを探した。
 叔父の家は電車とバスを乗り継げば三時間程度でたどり着ける。だがそれは、八歳の子供にとっては国を出るにふさわしいことだった。せめて最後に一言話したかった。なにを話すつもりなのかは、自分でもわからなかったが。
 子供たちの溜まり場へ行ってもシュンの姿はなかった。誰も今日はまだ会っていないと言う。町へ出たのだろうか? だとしたら面倒だ。ガーインはしばらく考えたのちに、川原へ行ってみることにした。
 胃の奥に残るアルコールの余韻が喉の渇きを増幅させる。店でビールを買い込んで、ラッパ飲みしながらガーインは川原へと降りていく。
 子供たちが水浴びをしていた。誰に作ってもらったのか、竹で組んだ簡単な舟に乗ってのんびり遊覧している子供も居る。ガーインは川に足を突っ込みながらただ歩いた。もはやシュンを探すことなどどうでもいいように思えた。
 ――どうせ俺はあいつを捨てていくんだ。
 嫌ってくれるなら、その方が気が楽だ。
 不意に前方で誰かが怒りの声を上げた。見ると、舟に向かって子供が石を投げていた。
 シュンだった。
「人に石を投げるのはよくないぞ」
 ガーインは川を歩きながらそう言った。舟はとうに流れすぎ、シュンは川原に腰をおろしてぼーっと川面を眺めていた。声にちらりとこちらを向いたが、なにも言わないまま、また川へと視線を戻してしまう。
 メガネを外して鼻の上をこすっている。痛くて嫌だと母親に文句を言っている姿を思い出した。
 ガーインはシュンの脇に腰をおろして、同じように川面を眺めた。
「泳がないのか」
 飛んでくる歓声に、二人は振り向く。
「…今日は、いい」
 楽しそうに遊ぶ子供たちを眺めながらシュンがぽつりと呟いた。
 ガーインはビールの瓶を差し出した。しばらく戸惑ったように瓶と、ガーインの顔を交互に見やったが、シュンは結局受け取った。そうして半分ほど残っているそれを大仰にあおった。むせて、吹きこぼした。
「いっぺんに飲むなよ」
 ガーインの笑い声に、不機嫌そうな表情でシュンが睨み返す。そうして瓶を突っ返した。ガーインは受け取って瓶に口をつけた。
 涼しい風が奇跡のように吹き渡った。ガーインは目を細め、空を見上げた。
「夏に遊びに来いよ。前に一緒に行ったことがあるだろ」
「……」
「おんなじ香港のなかだ。他の国へ行くわけじゃない」
 シュンは依然として口をつぐんだままだ。ガーインはこっそりとため息をつき、弟の横顔を眺めた。そうしてそっと頭に手をやり、軽く二三度叩いてみせた。
「行くよ。――元気でな」
 ガーインは立ち上がりながらまたビールをシュンに向かって差し出した。シュンは無造作に瓶を受け取り、ゆっくりとそれを飲み始めた。こちらを見ようともしない。
 川原の石を踏みしめながらガーインはうちへと向かう。やがて、ドポンっという音が聞こえて振り返った。
「兄ちゃん」
 シュンが立ち上がってこちらを見ていた。
「川は泳ぐなよ」
「……」
「絶対に、泳ぐなよ」
 シュンの足元に白い布があった。ガーインはそれを目に止めて一瞬言葉を失ったが、
「またな」
 手を上げて、そう叫んだ。
 シュンのメガネが陽光を反射して目を焼いた。遠くから飛行機の爆音が聞こえてきて、そのあとに続くシュンの言葉をかき消した。二人は手を振り合って別れた。
 まだお互いが本当に子供だった。生きるとか死ぬとか、言葉の上でしかわかっていない、幸せな頃だった。


別れのとき/2004.06.15


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