換気扇の回る音が続いている。
 床に寝転がって雑誌を眺めていた佐久間は、テーブルの上の煙草を取るついでに起き上がり、台所へと顔を向けた。
「よお」
 返事はない。
「メシまだっすか」
「うるさいなぁ」
 スマイルの苛立たしげな声が飛んできた。おとなしく待ってなよ、とぴしゃりと言われ、佐久間は思わず苦笑を洩らす。煙草をくわえて火を付けると、テーブルの上に雑誌を置いてまた眺め始めた。
 窓がかたんと鳴ったので目を上げた。どうやら風が吹き付けたらしい。窓の外に見える木の枝が、風に吹かれてゆらゆらと揺れていた。昼間は綺麗に晴れていた空も、今は薄く雲がかかり、静かに闇へ溶け込もうとしている。
 そろそろ夏も店仕舞いのようだ。騒がしかったセミの声はいつの間にか静かになっていて、夜になるといつの間にか鈴虫の声が聞こえていたりする。佐久間自身はそういった季節の変化に結構疎いが、夏の次に秋が来るという事実を忘れることは決してない。何故って、世間の皆様が一生懸命次の季節を宣伝してくれるからだ。いわく読書の秋、スポーツの秋、そして食欲の秋。
 いつものように飯でもどうだとスマイルに誘いをかけると、季節のせいかサンマが食いたいなどと返事があった。御所望品がサンマとなるといささか場所が限られてくる。定食屋にでも行くか? しかしせっかくの週末なのだから久々に深酒をしてぐだぐだになるのも捨てがたい。だがスマイルは焼きたてのサンマが食いたいと言って譲らなかった。じゃあどうすんだと投げ遣りにメールを送ると、
『うちで食べる?』
 月本家に飯を食いに来い、ということらしい。
 定時で仕事を終えてビールを買い込み、佐久間はとぼとぼと家路を辿った。いつもはまっすぐ向かう道を途中で折れ曲がり、幾つかの路地を抜けてスマイルの家へとたどり着く。既に換気扇は回っていた。玄関扉の脇にある、明り取りの奥で滲むぼんやりとした光を目にした時、なんだか言い様のない気持ちになったのを覚えている。
 呼び鈴を鳴らすと少ししたのちにスマイルが扉を開けた。佐久間の顔を見て、何故か一瞬困った顔付きになり、お疲れ、と言って家に上げてくれた。
 そうしてすることもなくサンマが焼き上がるのを待っている。待ちくたびれている。というか、腹が減ってたまらない。さっきから煮物の匂いとサンマの焼ける匂いが鼻腔の奥をくすぐっていた。とうとう我慢し切れずに佐久間は立ち上がり、煙草をもみ消して台所へと向かった。
「よお。なんかすることねぇか」
「あるよ」
 待ってましたとばかりにスマイルは皮を剥いた大根とおろし金を指差した。サンマと言えば大根である。うむ。
 道具を持って居間に引き返す時、飯の炊ける匂いもした。煮物はかぼちゃだった。佐久間は少しの間だけ台所に立つスマイルをみつめ、なんか変な感じだなと、口の端を持ち上げてこっそりと笑った。
「そういやぁお前の手料理とか食うの初めてだな」
「そうだっけ」
 漬物を持ってきたスマイルに言うと、少し考えたあとで「この前そうめん茹でたけど」と、さも当然のように答えられてしまった。
「ありゃあ料理とは言わねぇだろ」
「そう? 大学の友達で、カップラーメンにお湯注ぐのを立派な料理だって言い張ってるのが居るけど?」
「……学生さんは軟弱でいけねぇやなあ」
 スマイルはおかしそうに笑ってまた台所へと消えた。
 そういう佐久間だって毎日きちんと料理をしているわけでは勿論ない。週の半分は出来合いの総菜や弁当で済ませるし、店で食って帰ることも多い。包丁を持ったのだって独り暮らしを始めてからだ。それでも本を見ながらではあるが、ひと通りのことは出来るようになった。全く経験がないのと、必要があれば実行出来るというのは、根本的なところで大きな差がある。
 そういう意味でスマイルを見ると、意外というかなんというか、大分手馴れているような感じだった。それを言うと、うちは母さんが夜の仕事だしといささか複雑な表情をした。
「いや、技術ってなぁ大事っすよ」
「そうかな。馴れの問題だと思うけど」
 そう言う合間にサンマが置かれ、かぼちゃが置かれ、ほうれん草の胡麻和えが並び、味噌汁と飯茶碗が到着した。佐久間はすり下ろした大根を小鉢に入れると台所へ道具を持っていき、ついでに手を洗って居間へと戻った。
 割り箸以外は母親が普段使っている食器だというが、炊き立ての飯の匂いを嗅いだ瞬間、そんなことはどうでもよくなっていた。
「いっただっきやーす」
「はい、どうぞ」
 腹が減っていたこともあって、殆ど何も喋らず食事をした。途中でスマイルが気付き、「ビール飲む?」と訊いてきたが、佐久間はあとでいいと首を振った。
「酒飲みながらだと、飯の味がよくわかんねぇしよ」
「――そう」
 飲みたきゃ飲んでいいぞと言ったが、スマイルもあとでいいと同じく首を振った。
「味、どう?」
「美味い」
 自分で作るのとは当然違うし、食い馴れた実家の食事とも違う。上司の家や恋人の家で夕飯を御馳走になったこともあるが、そういうのともまた違っている。料理というのは人柄が出るものなのかも知れないと佐久間は思った。
「すげぇよ、普通にうめぇわ」
「それ褒めてるの?」
 だがスマイルは満更でもなさそうだった。
 あらかた食事を片付け、食後の一服を付ける頃には充足感に包まれていた。あぁ俺、今煩悩の半分くれぇは無くなってんなぁと、天井に向けて煙を吐き出しながら佐久間は考えた。
「世の中の人間みんなが美味い食いもんにありついてたらよ」
「うん?」
「戦争とかなくなりそうだよな」
 湯呑を手にしたスマイルは、少し考えてから口を開いた。
「でも、実際にはそうじゃないんだろうね」
「……そっか」
 少し眠い。
「もう少ししたらお風呂沸くから、先入りなよ」
「おう」
「……今日、どうする? 泊まってく?」
 佐久間は煙を吐いてから横目でスマイルを見た。口元がにやにや笑ってしまうのを抑えられない。
「つか、泊まって欲しいんなら素直にそう言えよ」
「うるさい、バカ」
 伸ばした腕をはたかれた。
「そのつもりで呼んだんじゃねぇの」
 今度は足を蹴られた。やられっ放しは口惜しいので、煙草を置いて襲い掛かってやった。さほど広くもない居間で上になったり下になったりを繰り返し、壁にぶつかったところで佐久間がマウントポジションを奪い取った。腹が痛くて苦しいとスマイルは笑い、食ったばかりのサンマが飛び出そうだと佐久間も笑った。スマイルのメガネを外すと、同じようにスマイルもメガネを奪っていく。
 軽く唇を重ねて髪を梳いた。
「ごっそさんでした」
「お粗末さまでした」
 片付けなきゃと言うが、少しの間抱き合って横になっていた。スマイルの体から煮物の匂いがするような気がした。砂糖と醤油と、かぼちゃの匂い。サンマの香りも残っている。全く同じ物が互いの体内にある。そんな当たり前のことが、なんだか不思議な気がした。


 明り取りから滲む光を見た瞬間に覚えた違和感がなんだったのか、ようやく佐久間は思い当たった。
「あ……っ、ん……!」
 家に帰ってきた――ような、そんな気になったのだ。誰かが帰りを待ってくれている「我が家」。生まれた時から自分を知る両親の待つ実家ではなく、長い付き合いになる恋人が暮らす家でもない、見知らぬ土地にある、でも古い馴染みの「自分の家」。
 馬鹿げた考えだとは思う。ここは独り暮らしをするアパートではなくてスマイルの家だ。ここは生まれ育った土地であり、幼い頃はペコも交えてあちこち出歩いた。どの道を曲がればどこへ出るのか知り尽くしている。
 だけどあの時、確かに思ったのだ。
 ――ああ、帰ってきたんだなぁ、と。
「やだ、や……ぁ……っ」
「うるせぇよ」
 スマイルを四つん這いにし、後ろから責め立てながら佐久間は考える。
 ――もしこんな風に、毎朝毎晩同じ物を食っていたら、俺達の体の中は全く同じ風に出来上がっていくんだろうか。食った物が血となり肉となり、互いの体を形成して、自分がこいつと同じでこいつは俺と同じに、なっていくんだろうか。
 もしそうだとしたら、今こうしてスマイルの中に入っている以上に、もっと奥に、俺は入り込むことが出来るんだろうか――。
 そう考えて、イキそうになって、あわてて息を詰めた。


 佐久間の指が髪の毛を梳いている。互いにベッドで横になり、スマイルは佐久間に身を預ける恰好で、ぼんやりと部屋の中をみつめていた。
「明日何時に起きる?」
 スマイルはそう訊きながら寝返りを打った。
「別に何時でも構わねぇよ」
「そう」
「お前は?」
 剥き出しになった肩へと佐久間が毛布を掛けてくれた。スマイルは佐久間に抱き付いて、「僕も何時でもいいや」と呟いた。
「なんか、今は考えるのが面倒臭い」
 そう言うと、佐久間がにやりと笑った。
「……何か勘違いしてませんか。ビール飲んだから眠いっていうだけなんですけど」
「あだだだだ。なんも言ってねぇだろうがよっ」
 頬をつねる手をねじり上げられ、スマイルは佐久間を睨み付けた。食事と酒と情交の満足感で頭が上手く働かないのは事実だ。しかしそれを相手に指摘されるのは、気恥ずかしくもあり恨めしくもある。だがそのまま強引に抱き寄せられて、腹立ちはどこかへと飛んでいってしまった。なだめるようにキスを繰り返されて、結局スマイルはいつものように佐久間の腕の中にある。
「サンマ、美味かったな」
 不意に佐久間が呟いた。
「季節の物って美味しく感じるよね、不思議と」
「体がそうなってんのかもな。季節の物を食えっていうようによ」
「秋ってあと何がある?」
「栗だろ、梨だろ……」
「果物ばっかりだね」
 でもいいや、今度食べようよと言うと、佐久間は何故か少し考えたのちに、おお、と呟いた。前髪を掻き上げられ、額にキスが落とされる。ふと目を上げ、なに、と訊くようにわずかに首をかしげたが、佐久間は何も答えなかった。いつものように髪を梳いて、またキスを繰り返すだけだ。
「……よかったら、また来なよ」
 今度は逆に佐久間を抱き締める恰好でスマイルは枕に頭を乗せた。背中に腕を回し、肩に手を置いて、唇が触れた場所にキスをした。
「簡単な物だけど、ご飯作って待ってるよ」
「……おお」
 馬鹿なことを、とスマイルは考える。あの時――佐久間の姿を見た瞬間、思わず「お帰り」と言いそうになった自分を思い出して、結局お前はどうしようっていうんだと何度も自分に問い掛け、そして今に至っても答えが出せていない。
 自分たちがやっているのはフリなのだ。恋人ごっこ、恋愛ごっこ。佐久間は恋人と繋がっているし、自分だって彼女の前に出れば佐久間の「幼馴染」として当たり前のように振る舞っている。多分これはどこへ行き着くことも出来ない、ある筈のない感情だ。
 二人は今、錯覚の世界に存在している。ある筈のない町、ある筈のない空間、ある筈のないベッドで、互いの温もりだけを頼りに息をしている。
 いつか――いつだろう――「その時」が来たら、今ここで繰り返される湿った呼吸は、お互いの胸に感じる鼓動は、どこへ消えるのだろうか。その瞬間のことを想像しようとすると、スマイルは怖くなって佐久間にしがみつく。今はちゃんとここにあるのに、いつか無いものとしてその存在を放られてしまうのだとしたら、じゃあ自分たちは一体何者であるのだろうか。
 この熱は、この苦しみは、なんの為に存在しているのか。
「今度お返しに何か奢ってやらぁ」
 不意に佐久間が顔を上げた。
「また美味いメシ食わせてもらいてぇしな」
 そう言って甘えるようにキスをされた。スマイルはなんだか嬉しくなって笑ってしまった。
「藤沢に美味しい鰻屋さんがあるって母さんから――」
「却下」
「大丈夫だよ。特上でも五千円しないって――」
「却下」


共食い/2015.09.13


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