「アクマ独り暮らし始めたんだってよ」
 最初、彼の口から出てきたのはそんな言葉だった。
 高校二年の二学期、放課後いつものように部活で準備運動をしている時だった。その時スマイルは一瞬だけ返事をし損ね、座りの悪い間を空けてから「そう」とだけ呟き返したことを覚えている。
 彼はその年の六月に行われたインターハイの予選で右膝を悪くし、それでいながら八月の本戦へも出場した為に、医者から一ヶ月の運動禁止命令を出されていた。だから夏休み中の部活はもとより、二学期になってからも体育の授業は見学を続け、部活にも参加していなかった。
 冒頭の言葉を聞かされたのは、その禁止命令がようやく解けて久し振りに部活で顔をあわせた時のことだった。
「なんかうち追い出されたっつってたぜ。ほら、海王辞めたじゃん。ほんでしばらくぶらぶらしてたらしいんだけどさ、『遊んでる暇があるなら生きる術を学びなさい』とかなんとか言われてお袋さんに叩き出されたらしいぜ、おっかしいよなぁ」
「…笑い事じゃない気がするんだけど」
 屈託のない彼のいつもの笑顔を見ながら、スマイルは心のどこかに、なにか引っかかるものを感じていた。
 久し振りの部活だということで彼は様子を見ながらの参加となった。いきなり無理をしてまた膝を悪くしては意味がない。基本姿勢を確認しながらの素振りに軽いランニング、そんな程度だ。それでもラケットを握れるのが嬉しくてたまらないという顔をしていた。
「アクマのお袋さんってさ、やさしいけどやさし過ぎなくってさ、なんかいいよな」
「そうなの?」
 実際、佐久間の母親とは数えるほどしか会ったことがない。それも小学生の時までだ。どんな人だったか思い出そうとしたが、スマイルのなかではあまり印象に残る女性ではなかった気がする。
「オイラは好きよ、あの人」
 その何気ない一言に、思わずどきっとした。
「ちっと、うらやましいよ」
「…どこが?」
「んー、子供の自主性を認めてるトコ。突き放してっけど、ちゃんと見守ってんのよね。愛を感じるよ」
「ふうん…」
 そんなものかと、ぼんやりスマイルは考える。自分自身はあまり肉親の情というものを身近に感じたことがないので、理想として話されてもあまり具体的に思い描くことが出来なかった。父親が居るってどういう感じなんだろうと時々夢想してみるぐらいだ。そういう意味では、スマイルにとっては彼の家庭ですら少しうらやましいと思ってしまう。
「んーでさ、アクマのアパートに遊び行ったんよ。けっこーちゃんと暮らしてたぜ。台所も案外広くってさ、料理すんのかって聞いたら、『カレーは作れるようになった』って」
「アクマが料理するんだ?」
「な? 想像しただけで笑えるだろ?」
 どうやら彼は運動を禁止されて暇を持て余していたこの一ヶ月、頻繁に佐久間と連絡を取っていたようだ。佐久間の暮らし振りをあれこれと細かく教えてくれる。その一つ一つを聞きながら、面白おかしく彼が語る姿を眺めながら、スマイルはどこか胸の奥に違和感を覚えていた。
 彼が笑うたびに、何故か寂しくなる。そしてほんの少しだけ苛立った。
 その違和感の原因がどこにあるのかは、どれだけ考えてもわからなかった。原因を突き止めようとすればするほど道は入り乱れ、最終的には思考停止してしまう。そうして、結果的に彼の笑顔をぼんやりとみつめる以外になす術がなくなる。
 それからも彼の口からはたびたび佐久間の話題が飛び出した。佐久間は二人の共通の友人で幼馴染みだ。小学生の頃は同じ道場で腕を競い合った仲間でもある。卓球という球技を通じて、まるでバラバラな三人が同じ空間に長いあいだ立っていた。高校生となった今ではそれぞれ進む道も違ってはきたけれど、お互い引き合うものはまだ持っていた。なにより彼の吸引力は強力で、佐久間もスマイルも、彼という名の星の下に集まった同志のようなものだった。
 だからなのか。
「アクマの彼女って知ってる? 俺このあいだ会ったんだけどさ、これがけっこーかわいいんだよなぁ。しかも彼女の方から告白したっつーから驚きっすよ」
「なんか未成年でも税金払わなきゃいけねーんだってよ。昨日アクマがぼやいてた」
「なんでアクマってあんなにバカバカ煙草吸うんかね。金がねーって言うわりに、煙草は吸うし酒は飲むしで、なんか違うだろって感じだよなあ」
「こないだアクマとさー…」
 佐久間の名前と共に現われる、彼の笑顔がひどく憎い。
 表面上、スマイルは彼の言葉を笑いながら聞いていた。個人的にスマイルは佐久間と顔をあわせづらい状況にあったので、彼を介して元気でやっていることが知れるのは有り難かった。ただ彼が楽しそうに笑うたびに――そしてそれが佐久間によって作られた笑顔なのだと思うたびに、何故かひどく嫉妬した。
 嫉妬して、醜い自分の心に思い当たり、また言葉を失う。
 どうしてそんなふうに感じるのかは、いくら考えてもわからなかった。そうしてはっきりしない心持はいつまでも胸のなかに残り、もやもやと煙のようにつかみどころなく、いつもスマイルを当惑させる。そうして、
「あに怒ってんすか」
 しまいには、彼にこんなふうに言われてしまう。
「怒ってないよ」
 それは高校生活も残りわずかとなった冬のことだった。それまでにも幾度かそう聞かれたことがあったが、そのたびにスマイルは彼の言葉を否定してきた。けれどその晩ばかりは何故か許してもらえなかった。
「ウソだね。なんかぜってー怒ってる」
 そう言って疑わしそうにスマイルの顔をのぞきこんでくる。
「そんなことないってば」
 ごまかすように素っ気無く呟き、スマイルは顔をそむけた。その動作が実に彼の言葉を肯定していた。なにか言いつくろうべきだと思ったが、上手いごまかしの言葉が思い浮かばない。結局スマイルは逃げるようにして道を歩くしかなかった。
 しばらくのあいだ、気まずい沈黙が流れた。
「俺、来月には居なくなるんだけどなぁ」
「…そうだね」
 彼は幼い頃からの夢を実現する為に、高校を卒業したあとドイツへ行ってしまう。その時は既に秒読み段階に入っていた。離れるのは寂しくもあったが、そんなことを言ったところでもはやどうしようもない。
 彼を止めることなど誰にも出来ないのだ。
 不意に背後で誰かが駆ける足音がした。と思った次の瞬間、スマイルの背中に彼が飛びついてきた。バランスを取りながらスマイルは立ち止まり、
「重いよ」
「オイラの命の重さだ」
 そう言って彼はけらけらと笑った。
 つられて笑おうとして、何故か反対に泣きそうになった。スマイルはあわてて歯を食いしばり、じっと立ち尽くしたまま彼の温もりを感じている。
「…ペコ、」
「ん?」
 横顔をのぞき込む彼の目が笑っている。まるでこれから言われることを知っているかのようだった。それでもスマイルは、あらためてその言葉を口にした。
「てっぺん取ってね」
「――おう!」
 彼はそう言って満面の笑みを見せると、ぐしゃぐしゃにスマイルの髪を掻き回した。スマイルはじっとされるがままになりながら、口だけ笑い、かすかに泣いた。
 幼い頃から彼の吸引力は強大だった。どこへ行くにも、なにをするにも、彼が全ての指針となった。それはまるで道を失った旅人が、方向を求めて夜空の星を頼りにするように。
 そんなふうに、彼はずっと特別だった。そしてその指針を失う時がとうとうやって来た。
 結局最後の最後まで、違和感の原因がなんだったのかスマイルにはわからないままだった。わからないまま、彼はまるで北風のようにドイツへと旅立ち、原因を探ることも出来ずにスマイルは一人取り残された。
 どこまでも突き抜ける春の空を見上げながら、それでもこの青空の向こうで星は輝いているのだとスマイルは思う。
 太陽に照らされながら、方向を求めてさまよい歩く旅人の為に、北極星はいつだってそこにある。


polestar/2004.09.30


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