佐久間が台所から部屋に戻ると、スマイルは布団に寝転がったままじっと窓の外をみつめていた。視線につられて佐久間も外を見たが、立ったままの位置では、道路をはさんだ向かい側の家の壁しか見ることは出来なかった。
「なんかおもしれぇもんでも見えますか」
テーブルに着きながらそう聞くと、スマイルは顔だけ起こして、
「雲」
と呟いた。
「――なに飲んでるの」
「麦茶」
「僕も」
そう言って手を伸ばす。
佐久間はグラスを渡してやりながら体を寝かせ、スマイルの両足を抱え込むようにして布団に横になった。そうして低い位置からのぞくと、墨をこぼしたような黒い雲がものすごく早い速度で流れていくのが見えた。
「雨上がったみてぇだな」
メガネを指で押し上げながらそう言うと、スマイルは喉の奥からおかしな声を洩らした。
「あんな大雨のなか来たのがバカみたいだ」
「まさかホントに来るとはなぁ」
笑い声にスマイルは振り返り、グラスに口をつけたまま佐久間を睨みつけた。そうして抗議の表明なのか、空いている方の手で佐久間の坊主頭を軽く平手で叩いてみせる。
「来ない方が良かったなら帰るけど」
「んなこた言ってねえだろ」
スマイルの手をどかし、お返しとばかりに佐久間は腹をぴしゃりと叩いた。
「っつうか、今更だぁな」
お互い下着だけの姿となっているのを見回し、佐久間は笑う。スマイルはなにか言いかけながらも、拗ねたような表情でまたグラスを口に運んだ。
二日ほど前からゆっくりと台風が近付きつつあった。関東を直撃することが予測されていたので、仕事の方は昨日までにおおかた終わらせておいた。会社が休みになるという連絡を早朝にもらい、そのまま昼頃までうだうだと部屋で過ごしていたのだが、昼間のテレビは面白くない。それでスマイルにメールを送り、暇なら来ないかと誘いをかけたのだった。
二時を過ぎた辺りで一旦風が弱くなった。その隙を衝いてスマイルはやって来た。はいていたジーパンは雨でびしょ濡れになっていた。
「平日の真昼間っからうだうだすんのは、気分いいっすねぇ」
そう言って佐久間は残り少ない焼酎を引っぱり出してきて、ロックで片付けながら二人でことにいそしんだ。雨で窓が開けられなかったせいで、情事のあとの気だるい空気はまだ部屋のなかに充満している。
「全部飲むなよ」
スマイルの腕を押さえつけて佐久間は身を起こす。そうしてグラスを口元へと持っていくと、スマイルはまた窓の外へと視線を投げた。
「そんなにおもしれぇか」
「…なんかさ、あれに乗ってどこか行けそうだよね」
「台風と一緒に日本海へご旅行ですか」
「海なら腐るほど見てるし、なにを今更」
いささか苦い顔をしてスマイルはそう呟き、ふと顔を寄せてきた。軽く唇を重ね合わせながら佐久間はグラスをテーブルに置いた。そうしてスマイルの体を布団に横たえると、にやにや笑って「もっかい、すっか」と聞いた。
「すけべ」
スマイルはそう言って佐久間の鼻先を叩く。佐久間はその手を握って、ふと真剣な顔になり、
「バカ野郎、男がすけべでなくってどうすんだよ」
「……僕、それになんて答えればいいの」
「とりあえず同意しとけ」
そう言ってまた唇を重ねる。スマイルはくすくす笑いながら佐久間の首に抱きついた。
わずかにスマイルの汗が香る。
メガネを外そうとして止められた。そうして反対にスマイルの手が伸びてきて佐久間のメガネを奪おうとする。しばらく無言で押し問答をした末に引き分けとなり、佐久間は降参の意を表するように首を振る。そのままスマイルの体の上にぐったりと身を横たえ、汗で濡れた髪を指でもてあそびながら喉元をぼんやりとみつめた。
なにがおかしいのか、スマイルはまだくすくすと笑っている。数ヶ月前には自分にしがみついて子供のように大泣きしたのがウソのようだ。だがそれを言ってしまうと、幼い頃から知っているあのスマイルとこんなふうにしている自分が、なによりも一番信じ難い。
「…なんだよ」
不意の苦笑を聞きつけてスマイルが怪訝そうにこちらを見た。「なんでもねえよ」と言いながら佐久間はスマイルの髪をぐしゃぐしゃに掻き回し、あらためてその身を抱きしめた。
「アクマ、お腹空いた」
窓の外へと視線を投げ、まるで他人事のようにスマイルが呟いた。
「豆腐あるぞ」
「豆腐だけ?」
「やっこにすりゃいいだろ」
「足りないよ」
言いながらスマイルはそろそろと身を起こす。
「ソーメン茹でろよ」
「アクマ茹でて」
「言いだしっぺは誰ですか」
「アクマ」
「テメーなぁ」
睨みつけると、またおかしそうに笑いながら唇を寄せてきた。メガネが時折ぶつかるのも構わずに、佐久間の首に両手を回して何度も口付けを交わす。わずかに汗ばんだ背中の感触がひどく淫靡に感じられ、本当にもう一度押し倒してやろうかと佐久間は思う。
「あに食いてーんだよ」
「なんか、あっさりしたもの。なんでもいいよ。ファミレス行こう」
「どうせだから飲み行こうぜ。モズクで良けりゃおごってやらぁ」
「せこい」
タオルを持って風呂場へと消えていくスマイルの後ろ姿を眺めながら、佐久間は煙草に手を伸ばした。そうして今更のように窓を開けて、吹き込んでくる強い風にふと目を細める。薄墨色の雲が流れていた空は所々青空がのぞき、そうしながらもまたぽつぽつと雨粒が落ちてくるのが見えた。
まだ空は明るい。
しばらくのあいだ、バカのように空を眺めながら何本かの煙草を灰にした。雲は東の方へ向かってものすごく速く動いている。確かに見ていると面白い。
やがてスマイルがシャワーを終えて風呂場から出てきた。佐久間は窓枠にもたれかかりながら無言で手招きして脇に座らせた。今更のようにセミが鳴き始め、二人はその声につられて何気なく窓の外に向いた。ふと顔を見合わせて小さく笑い、軽く口付けを交わす。そうして互いに手を伸ばして窓の下で抱き合った。
「…今年は、ねえのか、スイカ」
「もらってこないねぇ」
「お袋さんに言っとけよ。ダチで好物の奴が居るってよ」
「好きなんだ」
「…まあな」
特に好きだった覚えはないけれど、二年ほど前から、時々無性に食べたくなることがある。
また唇を重ねて濡れたままの髪を梳き、抗議するようにスマイルが背中を叩くのに気付いて佐久間は唇を離した。
「あんだよ」
「早く。ご飯」
佐久間は軽く舌打ちをして立ち上がる。
「ったく、色気のねぇ奴だな」
「いらないよ、そんなの」
素っ気無く言い放ったスマイルに向かって蹴りを入れる真似をすると、佐久間はタオルを拾い上げて風呂場に向かった。
まだジーパンが乾いていないというので貸してやる。
「ベランダに干しとけよ」
「夜には乾くかな」
「…明日になりゃ乾くだろ」
何気なく言い、佐久間は煙草を持って玄関に向かう。やや遅れてからスマイルは小さく笑い、「そうだね」と呟いた。
「今日泊めてね」
「勝手にしろよ」
「泊まるよ」
「だから勝手にしろっつってんだろ」
サンダルに足を突っ込みながら振り返ると、不意にスマイルが抱きついてきた。上からのしかかるようにされるとさすがに重い。文句を言おうとして口を開きかけ、抱きついてくる腕の強さに、ふと言葉を失った。煙草を持ったまま片手で背中を抱き返し、
「腹減ってんだろ。…行こうぜ」
「うん…」
何故か泣いていなければいいと不安になった。
顔を上げたスマイルは勿論泣いてなどおらず、抱きついたことなど忘れたかのように涼しい顔つきでサンダルに足を入れた。
佐久間はドアを開けて外に出た。台風から一転、きれいに晴れ上がった空が目の前に広がっていた。
夏がそこにあった。
「…そういやぁ、梅雨明けってしたんだったか」
「まだじゃないかな」
そう言ってスマイルも空をまぶしそうに見上げ、
「でも、もう夏だね」
セミのうるさい鳴き声を耳にしながら呟いた。
二人は駅に向かって歩き出した。言葉に出して確かめたことはなかったが、それが幸せの時であることは、間違えようのない事実だった。
逃げ水/2004.08.04