スマイルはしばらく黙り込んだあと、かすかに鼻を鳴らして「煙草くさい」と嫌そうに呟いた。
「そっかぁ?」
佐久間は狭いベッドのなかで身じろいで、自分の肩の辺りに鼻を近付ける。そうして匂いを嗅ぐが、別段それっぽいものは感じられなかった。
「気のせいっしょ」
「そんなことないよ。するよ」
「風呂入ったんだけどなぁ」
着ているものだってスマイルに借りたスウェットだ。匂いがするとも思えないのだが。
「もう体に染み込んでるんだよ。手とか――」
そう言ってスマイルは一瞬佐久間の首元をみつめ、なにかに言葉を詰まらせた。
「あんだよ」
「…手とかさ、煙草の匂いがするもん」
「あに照れてんだよ」
「照れてないよっ」
佐久間がからかうようにスマイルの後ろ頭をぺしゃりと叩くと、仕返しとばかりにスマイルは胸元にげんこつを入れてきた。くつくつと喉の奥で上げた佐久間の笑い声を、窓の外の雨が静かに打ち消している。
新年最初の月が終わる頃、鍋でも食わねえかとスマイルを誘った。とはいえ男の一人暮らしで数人用の大きな土鍋を所持している筈もなく、いつものように飲み屋へ入ったのだが。その帰り、なんとなく別れ難くてスマイルの家に寄せてもらった。そうしてまるで酔った上での冗談のように抱き合った。
気が付くともはや日付けも変わろうかという時刻で、結局佐久間はスマイルの家に泊めてもらうことにした。
まだ小学生の頃に何度か来たことがある程度だったが、ぼんやりとなかの様子は覚えていた。当時から既に母親と二人暮しだったスマイルの家は、その母親も仕事へ出たあとだったからひどく静かで、なんとなく居心地の悪さを覚えたものだった。
けれど今ではその静けさが逆に有り難かった。今この家には佐久間とスマイル二人きり、家主の狭いベッドで互いに抱き合うようにして眠りにつこうとしている。
佐久間は鼻の近くに手を寄せて匂いを嗅いだ。それでもやっぱり煙草の匂いはわからない。
「吸わねえ奴は敏感なんだな」
そう言うと、スマイルも顔を寄せてかすかに匂いを嗅ぎ、
「なんかうつりそうで嫌だ」
逃げるように身を引きながらそう呟いた。佐久間はムッとして、わざとスマイルの体を強く抱き寄せた。
「う〜つ〜し〜て〜や〜る〜」
「やめろバカっ」
しばらく狭いベッドのなかでじたばたともがき、やがて、どちらからともなく笑い出した。そうしてずれてしまった布団をかけ直して、佐久間は今更のように窓の外の雨に気付く。
「よく降りまさぁな」
「そうだね…でも少し乾燥気味だったから、降ってくれた方が有り難いかも」
「だけど雨降ってっと、仕事行くのが嫌になんだよな。っつうか、布団から出んのが嫌になる」
「それは僕も一緒」
「早くあったかくなんねーかなぁ」
そう言って佐久間は温もりを求めるようにスマイルに顔を寄せる。少し顔の位置をずらすとスマイルの鼻先の辺りに唇が触れた。そのまま暗いなかを探りながら二人は唇を合わせ、軽く、触れるだけのキスを繰り返す。
時折スマイルは酔っ払ったようなため息をつき、佐久間が着ているスウェットにしがみついた。その感触に佐久間は笑い、ゆっくりとスマイルの髪を梳く。そうしてもう一度だけ唇を触れて、また抱きしめた。
「…仕事、何時からなの」
つかんだスウェットを指先でもてあそびながらスマイルが呟いた。
「八時半開始。七時に起きて七時半に家出る」
「ご飯は?」
「途中で買って、向こうで食う。作るのもめんどくせぇし、起きたばっかだと入んねぇんだよな」
でもコーヒーだけは飲むと言うと、何故かくすくすと笑われた。
「あんだよ」
「別に」
そうして、まるでいたずらをするかのように唇を触れてきた。そのまま離れていこうとするのを押さえつけて佐久間は唇を重ね、戸惑って口の奥へと逃げてゆく舌を無理やりに拾い上げて絡めあわせた。
スマイルはわずかに逃げる素振りを見せた。一旦唇を離すと戸惑ったようにうつむき、また佐久間のスウェットを握りしめた。そうして恐る恐るといったふうに顔を上げて、そっと寄せてきた。
唇が重なると指が震えて佐久間の首を引っ掻いた。そのまま温もりを求めるようにスマイルの指があごに触れた。その冷たい指の感触を味わいながら佐久間はキスを繰り返し、吐息を聞き、また唇を触れる。
スマイルの体は冷たくて、熱い。
「……コーヒーならあるよ」
ぽつりとスマイルが呟いた。
「インスタントだけど」
「充分っすよ」
また二人は小さく笑い合う。
あごに置かれていた手がゆっくりと動き始めた。佐久間の顔の形を確認するかのようにそっと、指先で撫でながら口元へ、そして頬へと上がってくる。佐久間はくすぐったさをこらえきれずにかすかに笑い、
「相変わらず、ひゃっこい手ぇしてんなあ」
そう呟いて、唇に触れた指にキスをした。
「さすがは冷血漢」
「なんだとっ」
ぎりぎりと耳たぶを引っぱられ、佐久間は思わず悲鳴をあげた。スマイルはくすくす笑いながら唇を触れてくる。噛みつく真似をすると後ろ頭をひっぱたかれた。佐久間は髪の毛を数本引っぱり返し、「痛いよ」と文句を言う口をまたふさいだ。そのまま首筋を吸い上げ、スマイルがかすかに洩らした悲鳴に、ふと我を忘れそうになる。
佐久間は肘を突いて身をもたげ、暗がりのなかでスマイルの顔を見下ろした。スマイルはその視線をよけてじっと一点をみつめていた。指先で髪を梳くと、びくりとスマイルの体が震えた。佐久間はまたベッドに横になり、布団のなかでスマイルを抱き寄せた。
緊張を解くようにスマイルが息を吐いた。そうして恐々と背中に抱きつき、またあごの辺りに手を触れる。互いになにかを言おうとして、口を開きかけた瞬間、なにを言えばいいのかわからずに黙り込んでしまう。言葉を交わす代わりに唇を重ねた。指先で髪を梳き、頬に触れる冷たい手の感触にふと笑みを洩らす。
「…なに?」
「あにが」
「…なんでもない」
「俺だって別になんも言ってねぇや」
スマイルがせがむように唇を寄せてきた。二人はキスを繰り返しては笑い、互いの温もりを味わっている。
「なかなか寝れねぇやな」
そう呟くと、スマイルの笑う声が聞こえた。ほんの少しだけ温度の上がった指先で佐久間の頬を撫で、またキスをせがんでくる。
佐久間は顔の位置をずらしてスマイルの手首に噛みついた。
「腹減った」
「だからって、食うな」
「駄目。腹減りっす」
何度か噛みつき、手のひらを舌で舐めあげ、人差し指をくわえてねぶりまわす。くすぐったさにくすくす笑っていた声が、時折なにかを感じて吐息に変わる。誘うようにうなじを撫でると、びくりとスマイルの体が震えた。小さく悲鳴を洩らして、背中に回した手で痛いほどにしがみついてくる。
「や…」
息を乱し、嫌々をするように首を振る。そうしながらも抱きつく手は離れず、また熱いため息をつき、
「……やだ…っ」
唇から力を抜くと、逃げるようにしてスマイルの指が出ていった。抱き寄せようとするとわずかに抵抗の気配を見せた。佐久間はスマイルの髪に手を差し入れ、ゆっくりと、なだめるように何度も梳いた。スマイルは切れ切れに息を吐き出しながら体の力を抜いていった。佐久間が着ているスウェットの首元を握りしめて、うつむいた。
佐久間はうかがうように顔を寄せた。スマイルがためらいがちにこちらを見上げているのがわかった。佐久間はその身を抱き寄せ、唇を近付けて、そっと、触れるだけのキスをする。
「…また今度な」
かすかな声でそう言うと、スマイルは安堵したように小さく笑った。そうして唇を触れてきた。
「おやすみ」
呟いて布団をかぶり直す。佐久間はまたスマイルの髪を梳き、雨の音に耳を澄ませる。首に触れるスマイルの手はもう冷たくなかった。
そっぽを向いたままにじり寄るような感じが、佐久間はじれったくてたまらなかった。時にひどい苛立ちを覚え、後先考えずに突っ走ってしまいたい衝動にも駆られた。けれどそうしようとした瞬間にスマイルは怯えて身を引き、同時に、同じ恐怖を感じていることにも気が付いた。
互いに強く相手を求めていながら、止まれなくなることが怖かった。
二人とも同じことを思い、思いながら思っていることを口には出さずに、ただ少しずつにじり寄るしか方法はなかった。じれったく、もどかしく、時に苛立ちのせいでわめきながらも、暗がりのなかで静かに続くその息遣いだけは、今確かに腕のなかにある。
本当に寝入ったらしいスマイルの顔を暗がりのなかでじっとみつめて、佐久間は小さく笑い、また髪を梳いた。そっと顔を寄せて雨の音を聞き、静かに目を閉じた。
かすかにスマイルの匂いがする。
――やべえ。
どうしよう。すごい幸せだ。
恋煩い/2004.11.16