佐久間のひどく真剣な瞳がこちらをじっとみつめている。
 スマイルはその視線に気付いた瞬間、何故か恐怖を覚えてわずかにうつむいてしまった。そうしてうつむいた自分の行動がなんだか不可解で、別に怖くなんかないんだけどなと思いながら顔を上げた。顔を上げながら何故か笑ってしまう。その自分の笑いが更に不可解で、笑いをおさめようとするのに波のように笑いは広がっていってしまう。
「…あにニヤニヤしてんだよ」
「別に」
 素っ気無く呟いて口元を引き締めると、スマイルは顔を近付けた。つられたように佐久間も顔を近付けてくる。別に初めてのキスではないのに、どういうわけかタイミングが計りがたい。どちらかが距離を縮めようとすれば片方が離れてしまい、タイミングを失したかと離れれば、あわてたようにまた近付いてくる。
 いつの間にかどちらからともなく小さく笑い出していた。
「慣れてませんね」
「アクマこそ」
 二人は言い合って、息を殺しながら顔を近付けた。呼吸の湿り気すら感じられるほどまで顔を寄せると、ようやくそっと唇を触れた。スマイルはすぐに逃げてしまった。驚いたように佐久間が目を見開き、唇の隙間から小さく舌先を出しながらこちらを見上げてきた。
「なに、その顔」
 動揺したような表情がおかしくて、スマイルは吹き出した。
「猫が舌しまい忘れてるみたい」
「…のやろっ」
 不意に握り合った両手を引っぱられて勢い良く佐久間が唇を重ねてきた。目測を誤って歯がぶつかり、スマイルは痛みに顔をしかめて身を引こうとしたが、佐久間がそれを許さなかった。肉厚の舌がぬるりと滑り込んできて、重なり合ったスマイルの舌先を器用に絡め取ってゆく。アクマの味だと思った瞬間、体が一気に熱くなり、思わず声を洩らしてしまった。
 スマイルは逃げようともがき、そうしながらも、佐久間が痛いほどに握る手からはどんどん力が抜けていってしまう。
 ようやく自由になると、スマイルは息を吐いて佐久間の唇を見下ろした。わずかに光って見えるのがどちらの唾液のせいなのか、考えるのは恥ずかしい。逃げるように視線をそらせる途中で一度目が合った。佐久間もどこを見たらいいのかわからないようで、結局二人はうつむくようにして額を合わせ、しばらくのあいだ無言で居た。
「……メガネが邪魔なんだけど」
「外しゃいいだろ」
「わかった」
「――って、なんで俺の外すんだよっ」
 奪われたメガネを取り戻そうと佐久間の両手が伸びてくる。スマイルは笑い、佐久間のメガネを自分の背後に隠して「いいじゃん、別に」とまた笑う。
「アクマの方がメガネ大きいんだからさ」
「どういう理屈だよ」
 佐久間は苦笑するとスマイルの首に腕をかけ、抱き寄せて唇を重ねた。スマイルは佐久間のトレーナーを軽く握り、もう片方の手で佐久間のメガネをもてあそぶ。
 雨はまだ続いている。
 キスはさっきよりも上手くいった。そのまま佐久間に抱き寄せられて、スマイルは肩にあごを乗せながら頬を寄せた。
 佐久間の匂いが首筋から感じられた。この匂いを嗅ぎながら眠りについたら気分が良さそうだなとぼんやり思い、思いながら佐久間のメガネをコタツの上に置いた。すぐそばには鍵束と煙草と百円ライター。そして携帯電話。
 彼女からのメールはあのなかに残っているのだろうか。スマイルは手を伸ばして銀色のそれを軽く指でなぞった。彼女と前に会ったのはいつなんだろう。次に会うのはいつなんだろう。なんでそんなことが気にかかるのか、――理由はわかるけど理解したくはない。
 誘うように首筋に唇を触れた。佐久間は顔を上げ、無言で唇を重ねてきた。スマイルは抱きつき、「やっぱ邪魔じゃねえか」と苦笑してメガネを外されるのを、かすかに笑いながら見守っていた。
 なにか言おうとしながらも言葉が出ない。下手に口を開いたらおかしなことを聞いてしまいそうだ。突然怖くなって顔も見れなくなった。スマイルはうつむき、うかがうように佐久間に顔をのぞき込まれて、苦笑するように笑った。そうしてまた目だけが逃げてしまう。
「……なんか、変な感じ」
「あにが」
 そう聞きながらも、理由はわかっているようだった。
「…嫌なら帰るけど」
 しばらくしてから佐久間が言った。
「別に帰ることはないじゃん」
「そうだけどよ」
 床に投げ出されていた佐久間の片手が視界に入った。スマイルはそっと指を握りしめ、
「…そのつもりで来たんじゃないの」
 一月の終わり頃、冷たい雨が降った。みぞれ混じりの、だけど雪にはあと一歩というところで届かない、ひどく冷たい雨だ。そんな日に佐久間から連絡があった。

『鍋でも食わねえ?』

 元旦に神社で偶然顔をあわせて以来の誘いだった。
 駅から戻るとスマイルの家の方が近い。自宅へ向かう曲がり角が近付くにつれて、もう少し一緒に居たいなという思いが湧き上がった。曲がり角で立ち止まると、佐久間もなにか言いたげな顔でこちらを見ていた。そうして、
『お年玉いらねえ?』
 突然そう聞いた。くれるの? と驚いて聞き返すと、
『ビールだけどな』
『――もらう』
 二人は歩いた道を少し戻ってコンビニへ寄り、酒を買ってスマイルの家に向かった。居間でコタツに当たりながら酒を飲み、じゃれあうように近付き、離れ、手を握り、握り返され、誘われるように顔を近付けて、タイミングを外しながらキスをした。
 既に体は熱い。
 うつむきながら二人はまた額を合わせた。おかしな緊張が部屋に充満し、息をするのも難しい。ひどく静かで、だけどその静寂を崩すのも恐ろしかった。
「…お前が嫌っつうか、俺の問題か」
 佐久間は呟き、苦笑した。スマイルはすぐには答えられなかった。ちらりと携帯電話を見遣り、
「だいたいの前提として、アクマとって、どうよ」
「俺に聞くなよ」
「……嫌じゃないから困ってるって、前に言っただろ」
 誰かが不意に全てをぶち壊しにしてくれないだろうかとスマイルは願った。それこそ彼女からでも電話があればいっぺんにこの空気は消滅する。何事もなかったかのように笑って別れられる。――多分、今なら、まだ間に合う。
 だけどじらすかのように電話は鳴らない。当たり前のように誰かがやって来ることもない。二人は手を握り合い、ひどい緊張のなかで息をし、目を上げて、またうつむいてしまう。
「別に嫌じゃないよ」
「……」
「……なんか言いなよ」
「――俺、今、生まれて初めてお前がかわいく思えた」
 思わず吹き出した。
「なんだよそれ、言うに事欠いて『かわいい』ってさあ――」
 佐久間はげらげら笑い出す。
「だって、すっげー照れてんだもんよ、おっかしー」
「照れてないよっ」
 殴ってやろうと手を振り上げたが、強く握られているせいでそれも叶わず、結局バランスを崩して二人は床に倒れ込んだ。佐久間はまだ笑っている。
「…信じらんない」
 憮然と呟くなかで佐久間のくつくつと笑う声が続いている。スマイルは眉間に皺を寄せたままその姿を茫然と眺め、大きくため息を吐き出した。
「悪かったよ」
 佐久間は笑いをおさめ、息を整えながらあらためてスマイルの体を抱き寄せた。そうして髪を梳き、またうかがうように顔をのぞき込んできた。
「すんませんでした」
 そう言って、ぎゅうと抱きしめる。スマイルは黙って背中に抱きつき、でもまあ、緊張はほぐれたなと考えた。
 顔を上げて佐久間の目をみつめ、「部屋行く?」と聞いた。
 びっくりするぐらい、やさしいキスが返事だった。


やさしいキス/2005.03.31


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