さっきまでは笑えていた筈だった。なのになんでこんなに不機嫌になっているのか自分でもわからないまま、佐久間は歩道をずんずんと歩いている。
「待ってよぉ」
恋人の声も、聞こえていながら聞きたいと思えない。くわえ煙草で薄暗くなり始めた歩道に靴の裏をこすり付けるようにして佐久間は道を行く。
「マー君、歩くの早い」
不満げな恋人の声にふと歩調をゆるめて佐久間は振り返った。
「てめえがトロいんだ」
くわえていた煙草の灰を叩き落して、ふと思う。
――なんで俺、こんな奴と付き合ってんだ?
ぷっくらとした頬を更にふくらませて、少し怒ったような表情で恋人がやっと横に立った。そうしてまだ食べかけのポップコーンの入れ物を振りかざしながら、
「なに怒ってるの」
「…さあな」
本当に、自分でもよくわからない。
さっきまでは懐かしい仲間と顔をあわせて楽しく話をしていた筈だった。あんな嫌な辞め方をしたのに、みんな笑って受け入れてくれた。それが素直に嬉しかった。来て良かったと本当に思っていた。なのに。
『行くぜぃ相棒』
会場のなかに響き渡ったペコの声を思い出す。
自分が後押しをした男は、確実に空へと飛び上がっていた。現実に気付き、自らリタイアした道を、同じように意味も無く踏み外そうとしていたかつての生きた目標は、佐久間の望んだとおり再び高みを目指して飛び始めていた。
どこまでも行けと、佐久間は思う。
バカのようにくだらないことでうじうじ悩んでいる奴など見たくもない。だいたい考えるのが苦手なくせに、たまに真面目ぶればまともに見られるなど勘違いもはなはだしい。
なにも考える必要などない筈だ。黙ってラケットを振れば球は勝手にそこに当たる――かつて、ペコはそう言った。多分そのとおりなのだろう。まだ同じ土俵に立っていた時は、
――ふざけんな。
そう思ったけれど。
「ねえ。あの子、マー君の友達なんでしょ?」
煙草を足元に捨てて歩き出した佐久間に、恋人がそう聞いた。
「いつの友達なの?」
「…ガキの頃からだよ。おんなじ道場で打ってたんだ」
「昔からあんな頭?」
「そうだよ」
「おっかしいねぇ」
それは別に否定しないが。
日は暮れ始めているけれど、昼間の暑さはまだ残っていた。梅雨すらまともに始まっていないというのに、なんだか早々と夏を迎えてしまったかのような蒸し暑さだった。それが更に佐久間の苛立ちを増幅させる。
本当は全部終わってからペコたちとゆっくり話をするつもりだった。どのみち授賞式が済んでしまえばあとは帰るだけだ。久し振りに一緒に飯でも食おうかと考えていたのだけれど、表彰台へと向かう二人の姿を見た瞬間、不意にその思いは消えた。
ほんのわずかながら、互いの顔を見合わせて、小さく笑っていた。
――ああ、そうかよ。
現実を目の前に突きつけられたような気がして、投げ遣りのように佐久間はそう思った。
自らの意志でリタイアした。悔いているつもりはない。だからそれはいい。ただ、それでも見ることの叶わない風景は、まだ実際に存在する。そしてそれを確実に見ている奴らも。
そのことに嫉妬している自分に気付いて、佐久間はいたたまれなくなった。だから逃げるようにして会場を出てきてしまったのだ。顔もあわさず、一言も声をかけないまま。
ただ、苛立ちの原因はわからない。
二人が笑いあうのを見た時、ひどく遠いところに居やがるなと思った。たとえあの瞬間、二人のあいだを突っ切ったとしても、どうしたって崩せないなにかがそこにはあった。
「…ちっ」
――ふぬけた顔しやがって。
むずむずと胸の奥がくすぶっている。湿り気のある空気のなかを漂うように歩きながら、佐久間はわざとそれを考えないでいる。
誰に対して腹を立てているのか。
どちらにどんな嫉妬を覚えているのか。
子供の頃から抱えていた疎外感を久し振りに思い出していた。誰の気持ちをも自分に向けることは出来ないのだという、あの無力感。卓球を辞めた時に一緒に捨てたつもりだったのに。
歩きながらまた煙草を取り出して口にくわえ、火をつけた。思いっきり吸い込んで、ため息のように煙を吐き出す。
楽になれると思っていた。過去の自分を全部捨てるつもりで道をおりたのに、何故こんなにも腹立たしいのか。…何故こんなにも寂しいのか。
――ガキか、俺は。
恋人はポップコーンを口に放り込みながら、時折、そっとこちらを気にして見上げている。その気遣う視線が有り難くもあり、うっとおしくもあった。
「飯食って、けぇるぞ」
煙草の煙を吐き出しながら佐久間は言った。恋人は嬉しそうにうなずいてあとについてくる。
信号で立ち止まると、不意に恋人が手を握ってきた。
「うぜえんだ、放せ」
「やだ」
振り返ると、恋人は子供のようにすねた顔で佐久間をじっと見上げていた。けっ、と吐き出して、佐久間はそっぽを向く。
「あちぃのによ」
そう言いながらも、佐久間は恋人に手を取られたまま煙草を吸い続けた。にへら、と嬉しそうに恋人が笑うのを見て、なにも言えなくなる。
誰だって、欲しいものが手に入れば、嬉しいのだ。欲しいと思うのに手に入らないから、寂しくて、悲しいのだ。欲しいと思うことをやめたつもりだったのに、それでもまだ欲しいと思っている自分が居るから、苛立たしくてたまらない。
なんでそれが欲しいのかはわからないけれど。
「…お前さあ」
ふと聞きかけて、佐久間は口を閉ざす。「なぁに?」と恋人が振り返ったけれど、
「なんでもね」
「変なの」
「うるせえよ。おら、とっとと行くぞ」
――俺なんかの、どこがいいんだ?
あきらめたつもりのものを、いつまでもうじうじと追い続けている、こんな子供のような自分のどこが。
手に入らないとわかっていながら、――自分を振り向くことは決してないとわかっていながら、それでも振り向いて欲しいと望んでしまう、そんな自分に腹を立てる情けない、こんな男のどこがいい?
情けないことは嫌というほど自覚している。それでも欲しいと願ってしまうのが何故なのか。なにも答えを出せないまま、佐久間は恋人と手をつないで道を行く。そっぽを向き、煙草を吸い込んだ拍子に煙が目に入り、
「…ってぇー」
悲しい気持ちと共に、佐久間は目をこすった。
煙/2004.05.13