季節に遅れて飛ぶトンボの姿をみつけた。夕焼けに照らされながらよろよろと今にも落ちてしまいそうだ。川端の土手を歩いていたスマイルは思わず足を止めてトンボの姿をみつめた。
「あにしてんすか」
 少し先を歩く佐久間がスマイルの遅れに気付いて足を止めた。スマイルはトンボをみつめたまま「別に」と素っ気無く答え、判別が利かなくなるまでずっと後ろ姿を見守っていた。
 風に乗って佐久間のくわえる煙草の煙が鼻先にまで香ってくる。

  たまに照れたように笑う顔が好きだ。
  言葉でやり込めて苦い顔をさせると嬉しくなる。
  炎みたいな情熱が怖かったりもするけど、それが良かったりもするからちょっと困る。
  わがままを言えば、煙草量は半分にしてもらいたいけど。

「歩き煙草はやめなよ」
 再び歩き出しながらスマイルが言う。佐久間は苦い顔つきで振り返り、しばらく考え込んだあとに足元へと煙草を落とした。吸殻を踏みつけて火を消し、草むらへと蹴りだした。
「ポイ捨ては良くないと思うけど」
「ほんじゃお前が拾って持って帰れよ」
 少しイライラしたように言って佐久間はまた歩き始めた。

  いちいち先公みてえに口うるさいのがマジで腹立つ。
  すかしたように笑う時なんか本気で横っ面殴ってやりたくなる。
  しっかりしてるようで案外内面やわかったりすんのがおかしいっちゃあ、おかしいやな。
  …まぁ、たまぁにすっげー嬉しそうに笑う顔とかは、いいとか思っちまうけど。

 土手の斜面にへばりつくようにしてコスモスが咲いている。静かな風に揺れては元へと戻る。どうしてこんなに細い茎なんだろうと不思議に思ってスマイルはまた足を止めた。
「早く帰ろうぜ」
 いちいち立ち止まるスマイルの存在がわずらわしいのか、うなるようにして佐久間が言った。
「雨降りそうじゃん」
 言われて空を見上げると、いつの間にか雲に覆われていた。ずうっと先の方に雲の切れ目があり、その先に青空は広がっているが、そこでも既に日暮れは始まっていた。切れ目から差し込む夕日に焼かれて雲が薄くオレンジ色に輝いている。
「まだ平気だよ」
「降水確率五十パーセントだっつってたぞ」
「…せっかくのんびり散歩してるのにさぁ」
 情緒のない人だなぁ。
 ぼやくように呟いて、スマイルは仕方なく歩き出した。
「…川に突き落とすぞ、テメー」
 スマイルはくすくす笑いながら佐久間の横に並んだ。
「落ちる時は一緒に引っぱってってあげるよ」
「んなもん、即行で振り払うに決まってんじゃん」
「相変わらずやさしくないよね」
 ベルの音に二人は振り返る。後ろから自転車に乗った老人がゆっくりと近付いてきていた。スマイルは佐久間の後ろへ入り、老人が通り過ぎるのを待った。そうしながら川面へと視線を落として、向かい側の土手を、小さな子供の手を引いた若い母親が歩くのをみつめた。
 ほんの少しだけ冷たい風がスマイルの首筋を撫でていく。
「スマイルー」
「なに?」
 顔を上げると佐久間はずいぶんと先の方を歩いており、自分と同じように向かい岸を眺めていた。頭上の雲が夕日のせいで一面濃いオレンジ色に焼けていて、スマイルは驚きのあまり、危うく佐久間の言葉を聞き逃すところだった。

「今度一緒に心中すっか」
「……一人でやって」
「んだよ、愛のねぇ男だな」
「どっちが」

 いつの間にか二人とも立ち止まっていた。どちらもなにも言わないまま川面を眺めていた。冗談だよねと確認することも出来ないまま、スマイルは緊張の空気が濃くなっていくのをただ感じていた。
 不意に向かい岸を歩く子供が調子っぱずれな笑い声をあげた。母親がそれに答えて同じように笑っている。スマイルはかすかに笑みを洩らし、ようやく佐久間の方へと振り向いた。佐久間も安堵したように小さく笑っていた。

「――帰ろうぜ」
「うん」
「帰って一発」
「…下品」

 雲を焼く夕日の色は少しずつ濃くなっていた。赤から紫、そして濃紺へ。やがては暗がりに呑まれてしまう。
 日暮れにつれて空気が冷えていく。寒さに身震いしてスマイルは歩き出す。
「お腹空いた」
「――二時間前にマック食ったじゃねえか」
「でもお腹空いた。サンドイッチ食べたい。コンビニ寄ってこうよ」
 スマイルは少し早足になってまた佐久間の隣に並んだ。燃費の悪ぃ奴だなと佐久間がぼやき、健康な証拠だよとスマイルは笑う。
「試験勉強はどう?」
「…言うな。腹下すから」
 くすくすと笑うスマイルの目の前をまたトンボが飛んでいく。もうあとを追いかけることはしなかった。一陣の強い風が吹き抜けて二人は身を縮こませた。寒いねとスマイルが言い、少しなと佐久間が答える。不意にすれあった手の感触に二人はふと横目を見合わせた。どちらもなにも言わず、ただ暗がりに隠れるようにして一本だけ指をつないだ。
 陽は落ちきったようだ。
 気が付くと辺りの家々で電灯が灯り、まるで早く帰れと二人を急き立てているかのようだった。それからの二人はテレビや映画などの他愛もない話をし続けた。時折どちらかが片方の顔を見て笑い、また別の時にはもう片方が笑顔を見せた。
 遠くから風に乗ってキンモクセイの香りが運ばれてきていた。だんだんと視界の利かなくなっていく世界のなかで、互いの指の温もりだけが確かだった。

 ――初めて、時間が止まればいい、と思った。


日が暮れる/2005.01.07


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