「――で? 君、名前は?」
取調室、とかいうところは、想像していた以上に狭かった。恐らく三畳ほどしかないだろう。そこに小さくて四角なテーブル、パイプイスが二つ、目立つものはそれだけだ。なのに妙に圧迫感があった。
窓の外はまだ明るい筈だ。しかし天井で煌々と輝く蛍光灯のせいか、何故か月森孝介は今が真夜中なのだと時折錯覚しかけた。テレビドラマで見かける白熱灯のライトもないし、別段眩しいわけじゃないのに、なんでそんなことを思うんだろう。――孝介はパイプイスに腰を下ろしてうなだれながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
部屋の中央に置かれたテーブルはスチール製の頑丈そうな代物だった。意外に汚れは見当たらない。ふと悪戯心を起こした孝介は、向かい側からは見えないだろう位置で手を伸ばして、そっとテーブルの脚に触れてみた。そしてすぐに後悔した。指先に触れた冷たさと硬さが、嫌というほど現実を突き付けてくる。やはり夢ではないらしい。
――なんでこんなことになっちゃったかなぁ。
思わずため息をつきそうになった時、視界の隅にクリップボードとボールペンの姿が現れた。一人ではなかったことを思い出した孝介はあわてて顔を上げた。
向かい側に腰を下ろした背広姿の男は、どういうわけか不思議そうにこちらをみつめている。
「あのさ」
「はい」
まじまじと見られるのが嫌で、孝介はそっと視線を外す。しかしそらせた目線をどこへ持っていけばいいのかわからなくて、仕方なしにまた男を見た。向こうの不思議そうな表情は相変わらずだ。
男の年齢は量りかねた。パッと見は若そうな印象を受けるが、じゃあ実際幾つなんだろうと考えると、妥当な齢が浮かばない。正直高校生の孝介からしてみれば、二十代半ば以上は皆ひとまとめで「おっさん」だ。それでも、この人は三十歳以上じゃないだろうなと当たりを付けていた。警察署のなかでどんな役割を担っているのかは知らないが、自分で刈ったらしいがたがたの前髪とヨレヨレのスーツ、曲がったままのネクタイと締まりのない口元、それら全てから抑えがたいほどの小物感が伝わってくる。
けど、と孝介は男の視線にタジタジになりながら考えた。――だけどこの人は警察の人間で、自分は今事情聴取を受けているところなんだ。要するに自分は今、補導歴が付くかどうかの瀬戸際に居るわけなのだ。
男は右手に握ったボールペンを持ち上げると、不意に背後の壁を指し示した。
「もしかして留置場の方がいいのかな。まぁ今だったら三つ空いてるからどの部屋でも選び放題だし、良かったら行っとく? 春先だから風邪引いちゃうかも知れないけど、まぁそれは僕の責任じゃないし。――うん、そうしようか」
「やめてください」
一人で納得して立ち上がりかけた男の腕を、孝介はあわててつかんで止めた。イスから中途半端に腰を浮かせた状態で男はこちらに振り返る。そしてスーツの袖に触れる手を見て、あからさまに嫌そうな顔をした。
孝介はつかんだ時と同じ速度で手を放した。一瞬で男の推定年齢が跳ね上がった。
「もぉやだなあ。君、なにか誤解してない?」
男はイスに座り直すと、締まりのない口元でにまにまと笑い始めた。笑うと一気に若く見える。
「僕はただ、場所替えしようかって訊いただけだよ。警察のお世話になるのには馴れてないみたいだからさ、あちこち見たいのかと思ってさぁ」
――そんなわけあるかよ。
言い返したいのをぐっとこらえて、違います、と孝介は呟いた。
「いやぁしっかし、最近の高校生はホンットに大胆だねえ。真昼間のスーパーで刃物持って大立ち回りなんてさあ」
「……暴れてたわけじゃないです」
「あれ? そだっけ? でもでも、僕が聞いた話じゃ、『凶器を所持した不審な少年二人がジュネスのフードコートで暴れてる』って流れだったけど?」
「誤解ですっ。あとあれ、刃は偽物です……!」
懸命に言い返しながらも、孝介は自分の顔が青くなったり赤くなったりしているのがわかった。誤解とはいえ、今更自分のしでかしたことの恥ずかしさが身に染みてくる。出来ることなら弁解したい、持ってきたのは自分じゃなくて友人です、離れて取り調べを受けている花村陽介です、と。
だが今は自分の身の安全よりも優先しなければいけない用事がある。テレビに放り込まれた同級生を助けなくてはならないのだ。孝介はこっそりと嘆息した。どうやら「切り札」を出すしかないらしい。
「わかってないなあ」
――と、突然男が身を乗り出してきた。孝介は驚いて身を引こうとしたが、それよりも早く男の手が伸びて後ろ頭を捕まえられてしまった。
「あのさ、たとえ持ってるのがモデルガンだったとしてもだよ? それで銀行強盗しちゃったら、それは立派な犯罪なんだよ」
額がぶつかるほど男は顔を寄せて、下の方からにまにまと笑いかけてくる。その言葉は過ちを諭すようでありながら、どこかそそのかすようにも聞くことが出来た。
気味の悪い声だ、と思った覚えがある。
嗅ぎ馴れない煙草の匂いに息を詰めていると、やがて男は手を放して離れていった。イスに深く座り、相変わらずにまにまと締まりのない口元で笑っている。
――なんだ、こいつ。
孝介は無意識のうちに睨み返す。そしてみつけた。
向かって左側の側頭部に、ものすごい寝癖。
「……っ!」
孝介は吹き出すのを我慢する為に口を手で覆い、あわてて下を向いた。
「……あーっと、ごめんごめん。ちょーっと脅かし過ぎちゃったかなぁ」
男は孝介の肩が震えているのを見て誤解したようだ。孝介は首を横に振った。だが笑っているのを悟られない為に顔を上げることは出来なかった。
――もう駄目だ。
いろんな意味で我慢出来そうにない。「切り札」を出す時だ。
「いや、あのさ、別にこの件で君をどうこうしようってわけじゃないんだよ。や、ほら、それこそ誰か脅してお金強請り取ったっていうんじゃまずいけど、まだそこまでしたわけじゃないんでしょ? ちょーっとお説教して今後同じことしなければ――あぁでも、一応調書は取らないとまずいんだよねぇ。でね、だからまずは君の名前を――」
「すみません」
「あぁうん、わかってるよ。僕はわかってるから」
「……すみません、堂島刑事呼んでください」
「――――は?」
直後にノックの音が聞こえた。うつむいた孝介は、扉が開いて誰かが入ってくるのを視界の隅で捉えていた。
「おぅ足立ぃ、ここに月森ってのが――」
顔を上げるまでもなかった。聞こえてきたのは孝介の叔父であり現在の保護者であり、今までずっと孝介の相手をしてくれた足立の上司、そして現役の刑事、堂島遼太郎の声だった。
「……いやぁホント、あの時は正直、どこのお坊ちゃんが浮かれてバカやったんだろうって思ってたよぉ」
酔いのみなぎるままに身を揺らしながら足立は笑った。
「俺はあの時、本当に笑いをこらえるのが大変でしたねえ」
意味もなく一緒に身を揺らしながら孝介は言葉を返す。
四月下旬の、月の綺麗な晩だった。世話になっている叔父の遼太郎が、上りが一緒になったからと言って部下の足立を連れ帰ってきた。大抵は従妹の菜々子と二人きりで夕食を取るのだが、一気に人数が倍になったせいで、珍しく今夜はにぎやかな晩となった。
大人二人はそれぞれお気に入りの酒を開けてグラスを傾け、楽しく呑んでいた、のはいいのだけれど、まだ幼い菜々子が馴れない人物と騒がしさに怯えているようだったので、仕方なく足立を二階の自室へと引っ張ってきた。とっとと帰ればいいのにと思っているうちに、酔っ払った足立は窓を開けてそのまま窓際に居座ってしまった。
――ホラ、えぇと、堂島さんとこの、
そんな風に呼ばれるたびに、月森ですと返事をしていたのに、足立はいっこうに孝介の名前を覚えようとしない。あぁごめんごめん、酔っ払っているせいで一段と間延びした声でそう笑っては、わざとらしく寝癖の残る頭を掻いた。掻くだけで反省は一切しない。孝介も仕舞いにはどうでもよくなり、堂島さんとこの、と声をかけられるたびに、はいはいと返事をするようになっていた。
『ね、ホラ、来てごらんよ。お月様が綺麗だよぉ』
にまにま笑いながら足立はそう誘ってきた。まだ窓を開けると肌寒い季節だというのに平気で外へと身を乗り出し、山頂にかかる月をうっとりとした顔で眺めている。片手には缶ビール。孝介はため息を返事として同じく窓際へと歩み寄った。
ずいぶんと大きい、真っ赤な月がかかっている。
『……綺麗ですかね』
『うん。怪しい感じがすっごく綺麗』
何故か足立は嬉しそうに笑った。
やがて寒くなったと言って身を寄せてきた。互いの腕にもたれかかるようにして二人は窓の下に腰を下ろし、そうして今、足立のリズムに従って意味もなく右へ左へと揺れている。
「なぁんか着任早々、変な事件起きちゃったよなあ」
足立は言いながら背広のあちこちを探った。そうして煙草を取り出すと許可を得ることなくいきなり火を付けた。文句を言う隙もない。缶ビールの残りを飲み干してそこに灰を落とすと、また意味もなくにまにまと笑った。
「君も、ここに来たのは最近なんだっけ?」
「はい。新学期が始まる前日に――」
「そっかぁ。元はどこに居たの?」
「東京です」
「あー、じゃあ僕と同じだあ」
都会から流れてきた者同士だねぇ、と何故か握手を求められた。手を出さないでいると、いつまでもにこにこ笑ったまま期待の眼差しを向けられるので、仕方なく握り返した。こういうところはおっさん臭いなぁ、と孝介は思った。
「でもいいねぇ。君にとってここは『田舎の親戚の家』なんでしょ」
「はあ。でも遊びに来たことはないんですよね。あったとしても覚えてないくらい昔で――」
「僕なんか親戚一同東京に集まっちゃっててさあ。つまんないよねえ。誰でもいいから北海道とか九州とか行けばいいのに」
「……自分が引っ越すっていう選択肢はないんですね」
「やだよ、めんどくさい」
足立の吐き出した煙が白い筋となって目の前を過ぎた。取調室で嗅いだのと同じ匂いだった。
「まぁでも、なんにもないトコだけどさ、僕はここ気に入ったかな」
そうしてまた月へと視線を投げて、君はどう? と問いかけてくる。
孝介も振り返り、同じように赤い月を眺めた。だけど視界は思ったほど明るくなく、どぎつい赤の色が妙に恐ろしくて、すぐに近所の家々へと目を落としてしまった。
ひとつひとつ、こぢんまりとした家々の窓に明かりが灯っている。ここから見ることは出来ないが、今日は同じように天城も自宅で休んでいる筈だ。陽介も、里中も、そして自分も、ようやく今夜は安心して眠れる。
「俺も、好きですよ、ここ」
嫌な事件がきっかけではあったけど、不安なこともあるけれど、「一緒に居たい」と思う仲間が出来た。
きっと、ここでしか得られなかった宝物だ。
「夜は静かでよく眠れるしねぇ」
「……足立さんは、悩みとか全然なさそうですもんね」
「悩んでたって意味ないじゃない」
足立はそう言って苦笑した。孝介は一瞬、まじまじと足立の顔をみつめてしまった。当の本人は空に向かって白い煙を吹き上げている。そうしてふと視線に気付いて振り返り、
「なに?」
「……いえ、別に」
足立を見る視界の隅に、月の赤が映っている。会話の糸口を失った二人は、互いにどこへともなく視線をさまよわせた。そうしながら孝介は思った。
――やっぱりこの人、わからない。
時に子供じみただらしなさを見せるかと思えば、ふとした瞬間、叔父の遼太郎以上に達観したような雰囲気をうかがわせる。大人というのはそういうものなのかとも思うが、それだけではどこか納得がいかなかった。
しかし振り返って見た足立は、既にいつものとおり、締まりのない口元ににまにまと笑いを浮かべていた。どうやら機嫌よく酔っ払っているらしい。
「――ああ、わかりましたよ足立さん」
「んー? なにがぁ?」
「今日も寝癖がすごいです」
「……そこはほっといてよ」
わかってないなあ/2010.11.08