足立は短くなった煙草をもみ消して書類に名前を書き込んでいった。特別上手くはないが下手とも言えない、いかにも男らしい文字だった。ペンを握る指は意外と骨ばっている。学生時代に剣道をやっていたと以前聞いた覚えがあるが、そのせいだろうか。突然携帯電話を取り出して操作を始めた。どうやら稲羽署の番号がわからなかったようだ。
「ごめんね」
 足立の横顔を眺めていた孝介は、不意の言葉で我に返った。
「え……」
「警察は役立たずだね」
 足立はそう言って稲羽署の番号を書き終え、ボールペンを置いた。
「そんな、……そんなこと、ないですよ」
 だがそれ以上言葉が続けられないのも事実だった。警察は菜々子を救えない、生田目も捕まえられない。そんなのは当たり前だ。居所がわかる筈がない。
 明日だ。孝介は自分に言い聞かせる。明日、全部片が付く。明日またテレビに入って、菜々子を助け出して、
 ――もし失敗したら?
 菜々子を助けて、生田目も捕まえて、
 ――もしここに誰も戻ってこれなかったとしたら?
 真っ先に俺が、
「どうしたの、それ」
 声に顔を上げると、足立は何かを見ていた。視線の先には孝介の右手があった。不思議に思って手の甲を見てみると、小指の側に小さな切り傷がみつかった。
「……いつ作ったんだろ」
 全然気付かなかった。血のにじんだ跡もある。孝介が撫でさするよりも早く、足立の手が右手を掴み、そっと傷を撫でていった。
「ドジだね」
「……すいません」
 足立の骨ばった指が傷を撫で続けている。叱る言葉を呑み込んでいるんだろうか。そんなことも一瞬考えたが、今はそれ以上に足立の温もりが恋しくてたまらなかった。孝介はほんのわずかだけ指先に力を込めた。拒絶されるのが怖くてそれ以上は何も出来なかった。
 足立の指の動きが徐々にゆっくりになっていった。やがてそれが止まり、一度、力強く握り締められた。孝介は顔が上げられない。
「無茶しちゃ駄目だよ」
 言い聞かせるような優しい声。
 その言葉を合図に足立の手が離れていった。テーブルの上の書類を取り上げて封筒に戻し、背広の内ポケットに仕舞い込む。煙草とライターを拾い上げ、お茶の残りを飲み干して立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
 孝介は足立の後ろ姿を追った。
「――あの、」
 ようやく声が出たのは、足立が玄関の明かりを点けた時だった。声に足を止めて振り返り、なに、という顔でこちらをみつめてくる。孝介は立ち上がったまま、なかなか続きを口に出来ずにいた。
「…………あの、お願いがあるんですけど」
 ひと言喋るたびに胃が重くなる。緊張で吐き気がしてきた。
「なに?」
 孝介は唾を飲み込んだ。恐ろしくて顔が上げられなかった。
「……今日、泊まっていってもらえませんか」
「……」
「あの、居てくれるだけでいいんです。晩飯まだなら何か作ります。風呂はこれから沸かします。着替えも、俺ので良かったらお貸しします。客用の布団もありますから――」
 ふと目を上げると、足立は困惑顔でこちらを見ていた。孝介は気まずくなって目をそらせた。今頃になって後悔がどっと押し寄せてきたが、今更引き返すわけにはいかない。
「……すみません。迷惑だとは思うんですけど、今日だけでいいんです。……お願いします」
 孝介は右手でこぶしを作り、胃の辺りを押さえ付けた。
「俺、東京で暮らしてる時ってずっとマンションに住んでて、こういう一軒家に一人きりって今が初めてなんです。その……静か過ぎて落ち着かないっていうか」
 言い訳だ。
 暗がりのなかで何かが呟いた気がした。
「一人で静かな部屋に居ると、なんか怖くてたまらないんです。悪いことばっかり考えちゃって……もし叔父さんが退院出来なかったらどうしようとか、もし菜々子が、その……」
 こいつはお前を必要としてないだろ?
「……足立さんに嫌われてるのは知ってます。……でも他にこんなこと頼める人、居ないんです」
 みっともないな。あぁ、実にみっともない――。
 お願いします。再度呟いて頭を下げた。沈黙の時間が恐ろしく長く感じられた。何も言わずに帰ってしまうかも知れない、もしそうなったとしても足立を恨む筋合いはない。孝介は返事を待つあいだ、足立の足を眺めながらずっとそんなことを考えていた。
「僕の方が嫌われてるんだと思ってた」
 足立は帰らなかった。ずっとそこに立っていた。孝介はゆっくりと顔を上げて足立を見た。奴は不安そうにこちらを見ていた。
「僕でいいの?」
 他に誰が居るというんだろうか。孝介は口を開き、だがその瞬間、不意に泣きそうになってあわてて口を閉じた。
「俺、……俺は、足立さんが……っ」
 胸が詰まって上手く喋れない。足立さんが、ともう一度言って、やっぱり上手く言葉にならなかった。ぎこちなく腕を伸ばして袖にしがみついた。腕を引くと、抵抗することなく足立が目の前へやって来た。
 同じようにぎこちなく腕が上がり、静かに抱き寄せられた。孝介は背中にしがみついた。足立の指が髪を梳き、そっと頭を撫でたあと、小さくため息をつく音が聞こえた。
「よかった」
 足立の囁き声が耳をくすぐり、静寂のなかへと消えていった。


「ごめんなさい」
 呟きを耳にした足立は、不意に頭をもたげてこちらを見た。孝介は枕に頭を乗せたまま目だけを動かして足立を見返した。
「なに?」
 薄いオレンジ色の明かりのなかで、足立は小さく笑っている。
「……俺、わがままばっかりですね」
「そんなことないよ」
「でも――」
 足立はため息をついて横になった。布団のなかから手を出して、孝介の頭を撫でてくれる。
「辛いとか苦しいとか、そういうのは我慢しなくていいんだよ。困ってる時、誰かに助けてもらうのは、別に悪いことじゃないんだから」
「……」
 だけど、そのせいでその誰かが迷惑をこうむるのだとしたら、どうしたらいいんだろう。事実足立だって、こんな風に無理に引き止めてしまった。
 孝介が言葉を探していると、足立は腕を引っ込め、布団を掛け直してくれた。二つ並んだ布団の片方は無人のままだ。
 最初は一組だけを居間に敷いた。枕を整えている最中、もしよかったら君もここで寝ないかと足立が言った。二組の布団を並べて明かりを消し、それぞれが横になってしばらくしてから、嫌でなければ手を握ってもいいかと孝介が訊いた。握った手を引いて、ちょっと寒いねと足立が呟いた。俺の足、温かいですよと言うと、足立が暖を求めて両足を突っ込んできた。やがて君がカイロになってくれればいいんだと言って足立がこちらへやって来た。
 最初から一個だけ敷けばよかったねという囁きは、腕のなかで聞いた。
 足立は孝介の襟足を掴み、そっと後ろへ撫でつけている。時折指を上げ、静かに髪を梳いては優しく抱き締めてくれた。
「全部明日でいいよ」
 足立の唇が動く。
「明日、一緒に考えよう。今日はとりあえず寝ようよ。ゆっくり寝てさ、明日一緒に考えよ」
 菜々子のこと、遼太郎のこと、陽介や仲間のこと、自分のこと。
 足立のこと。
 もう一度ごめんなさいと言いかけて言葉を飲み、だけど、ありがとうも何か違う気がして口に出来なかった。孝介は無言で足立のトレーナーにしがみついた。
「大丈夫だよ」
 足立の手が髪を梳いている。
「全部上手くいくよ」
 孝介は目を閉じた。そうして、明日だ、と自分に言い聞かせた。
 明日、全部終わる。やれるだけのことはやってきた。確証がない訳じゃない。でも、百パーセント確実とも言えない。万が一ということもある。
 だけど今は信じよう。信じるしかない。自分が信じられない俺自身を、仲間はみんな信じてくれている。確証はない。だけど、やってみなければわからない。
「大丈夫だよ」
 孝介は眠った。一人きりになってから、初めてのゆったりとした眠りだった。


世界で一番・その4/2014.03.31



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