孝介は弱い雨が降り続く夜道を歩いている。
 雨は間もなく止みそうな気配を見せているが、もう少しというところで再び大きな滴を落とし、なかなか終わろうとはしなかった。孝介は濡れて貼り付く前髪を無造作に掻き上げながら、まぁいいやとぼんやり考えた。
 どのみちこの雨では霧にならない。今は誰かがテレビに入れられているわけではないのだ。いくらでも降ればいい。
 道の左右には田んぼが広がっている。稲刈りを終え、剥き出しになった地面の上へ、雨粒がトツトツと音を立てて落ちている。昼間は見晴らしのいい場所だと思っていたが、こうして夜になると辺りは暗がりに呑まれ、視界は殆ど利かない。数える程度しかない外灯がほのかに地面を照らし出し、それ以外はまるっきり闇に塗り潰されている。
 稲羽市に越してきて「田舎の生活」に戸惑うことは多かったが、そのなかで一番馴れないのがこの暗闇だ。
 町中はともかく、少し山の近くに来ると辺りは田んぼだらけになり、こんな風に夜は真っ暗になってしまう。もし暗がりのなかに誰かが潜んでいたとしても、きっとみつけ出すことは出来ないだろう。
 この町の闇は深い。
 孝介は無意識のうちに足を速めていた。こんなところ、さっさと通り過ぎてしまおう。そもそも家へ帰る最中なのだ。なんでこんな道を歩いていたんだっけ?
 何かを忘れているような気がして孝介は足を止めた。振り返って空を仰ぐが、見える物は何もない。ただ暗がりのなかにもっと黒く見える山の稜線が、わずかに目に留まるだけだ。弱々しい雨が顔に降りかかり、それで思い出した。傘を持っていない。
 ハッとして両手を見るが、当たり前のようにそこには何もなかった。自分の間抜けさに思わず茫然としてしまった。さっきからずっと雨が当たっていたのになんで気付かなかったんだろう。孝介はあわてて元来た道を戻ろうとして、足を止めた。
 戻れるわけがなかった。傘は足立の部屋にある。今更どの面を下げてのこのこ戻れるというのだろうか。
 それでも孝介はしばらく迷った。あれは自分が所有する唯一の傘だ。引っ越してきて初めて雨が降った時、遼太郎が好きに選べと言って買ってくれた物だった。ひと目見て気に入った群青色の傘。あとはみんなが共通で使う古いビニール傘が一本あるだけだ。
 ――でも、まぁいいか。
 孝介は家に向かう暗い夜道を歩き出しながら考えた。忘れてしまったものは仕方がない。いざとなったら叔父さんのを借りるとしよう。どのみちまだあの人は病院から出てこれない筈だし、しばらくは大丈夫だろう。
 吐く息が白くけぶる。孝介は寒さに身震いし、剥き出しの腕をさすった。肩も首筋も、全身が冷え切っている。思いのほか長く雨に打たれているようだ。シャツは肌に貼り付き、靴のなかにまで雨が染み込んでいる。この分では学生ズボンも汚れてしまっているだろう。ちょうど衣替えの時期で助かった。明日まとめてクリーニングに出そう。
 ――寒い。
 何かを忘れている気がする。
 指先が右腕の傷に触れた。しばらく傷跡を指でなぞり、なんでまだここに傷があるんだろうと考えた。これは直斗を助けに行った時に出来たものの筈だ。いや、そのあとだったか? テレビに入るたびに何処かしらやらかしてしまうので、もうどれがいつのものだか覚えていない。
 孝介は外灯の下で足を止め、袖をめくって傷を眺めた。二の腕に斜めに走る傷跡からは血がにじんでいた。しつこくさわっていたのが悪かったのだろうか。痛みはないが、舐めると確かに血の味がする。
『お前、無茶し過ぎなんだよ』
 陽介の声が耳の奥で呆れていた。その時孝介はシャドウに痛烈な一撃を食らい、情けなくものされたあとだった。地面でのびる孝介の顔を、相棒は渋い表情で上から見下ろしてくる。
「お前がやられたらおしまいだろ」
 孝介は反論しかけて口を閉じた。自分一人で戦っているわけじゃない――それを言ってしまえば、言葉は自分に返ってくる。陽介は別に責めるつもりでそんなことを言っている訳ではないのだ。孝介はひとつ息をついて心を落ち着かせ、「悪い」と言って腕を伸ばした。陽介は、しょうがねぇなぁという顔でその手を掴み、引っ張り起こしてくれた。
「月森くん、大丈夫?」
 回復が必要ならと、雪子がペルソナを呼び出す準備をしている。孝介はありがとうと言って首を振った。
「みんな、調子はどう?」
「まだまだ行けるよっ」
「あ、私も」
 千枝がこぶしを振り上げるのにつられて雪子も手を上げた。振り向くと陽介は、勿論というようにうなずいてみせた。
 メガネのお陰で薄れてはいるが、それでも辺りに漂う霧には終わりが見えない。いずれ最上階へたどり着く筈だが、今はそれがどこなのか見当もつかなかった。階を上がるたびに新しい敵が現れる。一戦一戦が真剣勝負だ。
「行くか」
「うん」
 孝介が駆けだすあとにみんなが付いてくる。
『わざとでしょ』
 足立の嘲笑うような声が耳の奥で囁いた。孝介は首を振り、まくり上げていたシャツを元に戻した。そしてもう一度二の腕を握って、そこに傷があるのを確かめた。
 怪我をするのはわざとじゃない。好きであちこち傷だらけにしているわけでもない。正直毎回やらかすたびに怒られてもいる(特に陽介に)。ただリーダーを引き受けてからずっと、自分が真っ先に飛び出さないといけないような気がして、孝介は引くことが出来なかった。
 自分が引けば皆も引いてしまう。自分が呑まれれば皆もつられる。一度でも倒れてしまえばそれで終わりだ。だったらどうして躊躇なんか出来るだろうか。
『痛いのとか、血が出るのとか、好きなんでしょ?』
 寒い。
 孝介は背後を振り返った。道端に背の低い外灯がぽつりぽつりと立っていて、それぞれがぼんやりと地面を照らし出している。孝介以外に道を歩いている人の姿はなく、車や自転車のライトすら見えなかった。
 外灯のほのかな明かりのなかを、雨が影を作りながら落ちている。どこまで歩けば道が終わるのか定かでない。雨は止みそうで止まず、時と共に闇はいっそう深くなる。
 今から傘を取りに戻ったとしたら、足立はドアを開けてくれるだろうか。今日でなくてもいい、事情を説明する為に電話を掛けたとして、果たして足立は出てくれるだろうか?
『うるさいなぁ!』
 不意に鼻の奥がつんと痛んだ。気が付いた時には涙が落ちていた。孝介は乱暴に腕で拭い、うつむきながら歩き出した。
 深く吐き出した息が白くけぶる。続けて落ちそうになる涙をこらえて、またため息のように長々と息を吐く。
 あんなに怒るなんて思わなかった。
 そう考えた時、我慢していた筈の涙が落ちた。周囲に人が居ないのを幸いに、孝介は少しだけ静かに泣いた。歩くことだけはやめなかった。立ち止まってしまえば帰れなくなる。歩いていれば、いつかは必ず帰り着く。道はどこかに絶対通じている。それだけが唯一の支えだった。
 ――やっぱり駄目なのかな。
 暗い夜道が続いている。行き着く先はまだ見えない。
 自分では冷静に判断出来ていると思ってた。少なからず足立は自分を信頼してくれていると、自分がそうであるのと同じなのだと、思っていた。だけど、実際はどうだ。付き合い出してから半年、お互い相手を疑心暗鬼の目で眺めている時間の方が長かったんじゃないのか。
 金をやるから自由にさせろと言われた時も。
 自分と同じ様に汚くなるなと言われた時も。
 そもそも綺麗だと戯言を言われた当初から。
 足立を信用していないのは自分の方だったんじゃないのか? 足立がしている隠し事を、たとえそれがなんであれ、何故無理矢理に訊き出そうとなんてしたんだろうか。それがわからなければいけない理由なんて何もなかった、ただ単に知りたいだけだった。
 ――だって、辛そうだったから。
 言い訳だ、自分は単に「知りたい」だけだった。今と同じだ、相手がどんな気持ちであろうとそんなことは一切考えず、ただ事実を暴き出そうとしている、汚い大人とおんなじだ。
「だって、そうしないと菜々子が」
 おんなじだ。お前が一体誰を責められるっていうんだ。お前一人に何が出来る?
 気が付くと足を止めて暗闇のなかをみつめていた。そこに居る誰かに向かって孝介は懸命に反論を続けていた。ぼんやりと光る一対の瞳以外、姿は一切見ることが出来ない。声は意識に直接流れ込んできていて、まるで自分の内から罵倒の言葉が生まれているかのようだった。
 孝介は涙を流しながら闇のなかを睨み付けた。
「お前なら上手くやれたのかよ!」
 かすかに笑う声が聞こえた。
 ――よかったじゃないか。事実がひとつ判明した。結局のところ、あいつはお前を必要とはしていないってことだ――。
 瞳が消えた。夜が急激に晴れ、孝介は薄明りのなか、もがくようにして目を醒ました。


 早朝の部屋は冷え切っていた。まだ十一月でこの寒さなら、本格的に冷え込んだらどうなるんだろう。そんなことを考えつつ、孝介は布団からはみ出ていた腕と肩を仕舞い込んだ。
 カーテンの隙間から射し込む弱々しい朝日がぼんやりと部屋の様子を浮かび上がらせている。端に寄せたテーブルの上から携帯電話を取って時刻を確かめた。起きるにはまだかなりの時間がある。電話をテーブルに戻し、布団にもぐり込んだ孝介は、もう一度眠ろうと目を閉じた。さっきまで何か夢を見ていた筈だ。なんだったっけ? 内容はよく覚えていない。水の感触だけが不思議と全身にまとわりついていた。
 ――眠ろう。
 もう少ししたら菜々子が起き出す筈だ。そうしたら自分も起きて、一緒に朝食を作ろう。パンを焼いて、目玉焼きとサラダ、ベーコンが少しだけ残っているから焼いてしまおう。あぁ、でもあれ二人前しか……いや、叔父さんは病院だし、菜々子と二人分で大丈夫。
 菜々子。
「……っ!」
 孝介は布団から跳ね起きた。薄暗い部屋のなかを見回し、あわててカーテンを引き開ける。薄い雲に覆われながらも、太陽が青空に昇りつつあった。
 夜明けだ。また一日が過ぎてしまった。
 孝介はソファーにずるずると崩れ落ちた。なんで忘れていたんだろうか。遼太郎はまだ入院中だ。そして菜々子は、霧の向こうに囚われたまま、姿を見ることが出来ずにいる。



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