雨は午後から降り出した。
最初に気付いたのは里中千枝だ。授業中、教師が黒板に向かっているのをいいことに振り返り、「降ってきたね」と呟いて仲間に注意を促した。
言葉につられて孝介も窓の外を見た。校庭を取り囲む桜並木の緑の葉が、雨粒に打たれて揺れている。
「しばらく雨が続くらしいな」
後ろの席で花村陽介も呟いた。
「霧、出るかな?」
「多分な……」
千枝は硬い表情で窓の外をみつめたあと、ふとこちらへ視線を動かした。大きな瞳が不安そうに揺れている。
「……大丈夫だよね? あたしたち、助けたんだもんね?」
孝介はうなずいて返す。少なくとも天城雪子は救出した。マヨナカテレビにほかの人間が放り込まれていない限り、危険はない筈だ。
それでも千枝の不安そうな表情は変わらなかった。教師の話が始まったというのに、相変わらずじっと窓の外をみつめている。
授業へと戻りながら、わからなくもないけどな、と孝介は思った。
霧のなかで二人が殺された。三人目に狙われたのが親友で、自分たちの手で助けたとはいっても、犯人を捕まえたわけじゃない。犯人の狙いがわからない今、なにが起きても不思議ではないのだ。
孝介はそっと千枝の机を叩いた。音に気付いて目を上げた彼女は、孝介が再度うなずくのを見て恥じ入ったように笑い、おとなしく黒板に向き直った。
教師の言葉の合間に、雨の音が聞こえた。結局は孝介も、窓の外から気をそらせられずに居る。
放課後になっても、三人はすることもなく孝介の机に集まって、ぼんやりと雨が降るのを眺めていた。
「雨が続いたあとに霧が出るのって、ここら辺じゃ普通のことなのか?」
陽介の言葉に、千枝は首を振った。
「たまに出ることはあったけど、こんなしょっちゅうじゃなかったよ。やっぱ今年はちょっと異常」
そう言って千枝は大きなため息をついた。
「あーあ、天気をこんなに気にする日が来るなんて、思ってもみなかったなぁ」
「そういうのは遠足の前の日だけで充分だよな」
二人はうなずき合っている。孝介はおかしくて吹き出してしまった。
「二人とも興奮して眠れないタイプ?」
千枝はまさかと首を振った。
「あたしは寝らんないってことはなかったなぁ。でもテルテル坊主はいっつも作るよ。いーっぱい作って窓の下にぶら下げるの」
「充分興奮してんじゃんか」
呆れたように陽介が鼻を鳴らした。千枝はむっとした顔で陽介を睨み付けた。
「なによ、じゃああんたはどうなのよ」
「俺? 俺はホラ、常に冷静なタイプですから?」
「うっそばっか。案外寝らんなくって、羊の数とか数えちゃったりしてんじゃないの?」
「しねーよ、そんなこと」
「……羊数えても、別に眠れなくない?」
孝介の言葉に今度は二人が吹き出す番だった。
「え、なに、お前やったことあんの?」
「月森くんでも、そういう時ってあるんだぁ」
「いや楽しみでっていうか、緊張しちゃってさ。高校受験の時」
孝介が言うと、二人は納得したようにうなずいた。
「確かに君ってデリケートな感じするもんね。花村と違って」
「――ちょっと待て、なんで比較対象が俺なんだ」
「そうだよ、俺に対して失礼だろ」
「そっちかよ!」
午後の教室に千枝の笑い声が大きく弾けた。どうやら授業中の不安な気持ちは忘れてくれたようだ。レンタルビデオ店に行くと言って教室を出ていく千枝を見送ったあと、孝介は友人に振り向いた。
「……なんで二人は付き合ってないんだろうなぁ」
「はあ!? なんだよそれ、冗談でも有り得ねーって」
「そう? 結構仲よさそうだしさ。いいコンビって感じするけどな」
「そりゃ話はするけど、それだけだって。それに俺の好みは、もっとこう――」
言いかけて、陽介は言葉を切った。友人の表情が暗く沈むのを見た孝介は、やっと自分の失言に気が付いた。
小西早紀が亡くなってから、まだ二週間しか経っていない。
「ごめん」
陽介は言葉に振り返ると、硬い表情でかすかに笑った。
「バーカ。わざわざ謝んなって」
「……」
しかし友人の暗い表情は相変わらずだ。孝介は自分の愚かさを呪っていた。話の流れだったとはいえ、考えが足りなさ過ぎる。
しばらく気まずい沈黙が続いたあと、不意に陽介が机を叩いた。
「な、ジュネスでも行かね? たこ焼きおごれ」
「――いいよ」
冗談めかしたその言葉に、孝介はやっと安堵して立ち上がった。
雨だというのに自転車で登校してきた陽介の為に、孝介は両手に傘を持ち、友人の頭上に掲げてやった。陽介は自転車から降りてのろのろと押しながら歩いている。
「……俺さ」
正門前の坂をやり過ごしたあとで、陽介がぽつりと呟いた。
「今でもたまに、小西先輩の夢見るんだ」
「……」
「ジュネスでバイトしてるみたいな、そういう夢。なんか普通過ぎて、先輩が居るのに焦ったりとかしねーんだよな。あぁ、今日も笑ってんなーって思うくらいでさ」
陽介は手元へと視線を落として言葉を続けた。
「あんまり普通過ぎてさ、目が醒めたあとで確認しちまうんだ。あれ、先輩ってまだ生きてたんだっけ? って」
「……それはさ、」
「知ってる筈なのにさ。夢って変だよな」
そう言って陽介は苦笑する。孝介はかける言葉がみつけられずに居た。雨で黒く濡れたアスファルトを眺め、無言で隣を歩くばかりだ。
「でもなんか、どっかで気付いてる感じもするんだ。夢のなかで普通に先輩と話しながら、話してるのは普通のことだって思ってんのに、やっぱどっかで違うなって思ってるとこがあってさ」
そうして不意に足を止めると、陽介は空中をみつめ、それを指先で四角く区切ってみせた。
「こう、空気って目に見えないだろ? 見えないけど、そこにちゃんとあるじゃん。それと同じ風にしてさ、見えないけど『なにもない』のがある、って思ってんだ。四角い、立方体みたいのが俺の側に浮いててさ、俺はそれを見てそこにあるって知ってるのに、わざと見ないフリしてんだよな」
「……」
「先輩が居ないのって、そんな感じだ」
陽介は言葉を切ったあと少し考え込んだ。そうして難しそうな顔で「ちょっと違うな」と呟いた。また口を開いてなにかを言いかけ、でも結局、言葉は続かなかった。
「上手く言えねぇや」
苦笑して、また歩き出す。
「だからさ、天城助けられてよかったよ」
「……そうだな」
天城雪子はまだ登校してきていない。だが千枝の話では、しっかりと回復に向かっているということだった。
「犯人の狙いって、なんなんだろうな」
ジュネスへと続く道へ入りながら陽介が言った。孝介は肩をすくめるばかりだ。
「そもそも、なんで山野アナを殺したんだ?」
「なんか仕事の関係なのかね。でもさ、だとしたら、あとに狙われた二人の繋がりもさっぱりだもんな」
孝介はうなずいて返す。
山野真由美、小西早紀、そして天城雪子と、事件が続くにつれて余計に謎は深まっていく。自分たちの手で解決を、と決めたのはいいが、あらためて考えてみるとわからないことだらけだった。
しばらく無言で歩いたあと、あのさ、とためらいがちに陽介が声をかけてきた。
「……俺、先輩の本音が聞けてよかったと思ってんだ」
孝介は驚いて友人を見た。陽介は気まずそうに笑いながらそっぽを向いた。
「いや、確かに痛いこと言われたけどさ。……でも知らないままで居るよかは、ずっとよかったよ」
「……」
「出来れば直接言って欲しかったけどな」
そうして初めて、泣くのをこらえるように唇を噛み締めた。そうだな、と呟いて孝介は言葉を続けた。
「そうしたら俺が、盛大に失恋パーティー開いてやったのにな」
「な! ……てんめぇ、ちょっと女子に人気があるからっていい気になんなよ!」
陽介が体当たりしてきた。孝介は笑ってぶつかり返した。
「犯人、捕まえような」
二度三度、互いに体をぶつけ合ったあと、孝介は言った。
「絶対にさ」
「――おう」
陽介はこぶしを握り、傘を持つ孝介の手にぶつけてきた。
「頼りにしてるぜ」
それから少し恥ずかしそうに笑って、相棒、と付け足した。
そっちかよ/2010.11.27