綺麗に晴れ渡った空のずっと向こうを足立は眺めている。子供たちが来る前、頭上に浮かんでいた雲はもうどこかへと消えていた。太陽が山の稜線に沈んだ今、空はゆっくりと闇に溶けつつある。水面に薄めた墨汁を一滴、また一滴と垂らしそれがじわりと広がるように、少しずつ、だが確実に日が暮れようとしていた。
町が見えないのはそのせいなのかな。足立は自分が喋る言葉もそっちのけで考えた。
孝介に拳銃を奪われた少しあとから、なんだか意識がはっきりしない。自分の口がなにかを言っているようなのだが、言葉の意味が理解出来なかった。でも、もうどうでもいい。自分に出来ることは全部やった。そして叶わなかった。あとは多分、死ぬだけだ。
足立は目を高台の下に向けた。さっきから町を見ようとしているのだが、見える全ては濃い霧に覆われてしまい、あるのは真っ白な世界だけだった。はるか彼方に聳える山以外、なにもない。自分が行けるとは思わないが、ちょっと天国みたいだと足立は笑った。
――あれえ?
ふとなにかが見えたような気がして目を凝らした。見覚えのあるクリーム色の建物。あれは確か堂島親子が入院している病院だ。あれれ、と思っていると、ほかにも色々と見えてきた。毎日嫌々通った稲羽警察署、しょっちゅうサボったジュネスの屋上、車を借りたレンタカーショップ、自分のアパート。
そこに居る人たちの姿も見えてきた。だがおかしなことに、彼らの動きは止まっていた。看護師はカルテを小脇に抱えたまま菜々子の毛布を引き上げようとしている。四六商店の前では幼い女の子が二人、半分に分けた肉マンにそれぞれ噛り付こうとしていた。土手を歩くカップルの姿もある。男は自転車から降りて押して歩き、その横では女が風に吹かれた髪の毛を手で押さえ、鮫川の方へと顔を向けていた。
誰の周りも霧が取り囲んでいる。天上から続くこの白い闇に呑まれ、彼らは目を開けたまま眠っている。
――なんだ。
足立は妙な納得をして笑った。なんだ、あそこが天国だったのか。結構世俗にまみれてんだね。おかしくて笑った。笑い過ぎて涙が出てきた。
――なんだよ。
もっと早く教えてくれればよかったのに。
片腕を取られながら足立は体を起こした。ゆっくりと立ち上がり、一歩を踏み出したあと、ありがと、と呟いて完二の肩から手を離した。周りを取り囲む仲間たちも、足立の歩みに合わせて同じように歩き出す。喋る者はなかった。足立はスーツに付いた埃を払い、頬を手で押さえて、そこにある自分の血に今更ながら驚いてみせた。
孝介は岩に寄り掛かりながら足を差し出した。足を引っ掛けられた足立は呆気なく転んだ。振り返った雪子があわてて手を差し伸べかけたが、孝介の視線に気付いたらしい、身をかがめたまま戸惑いの目を投げかけてきた。
「月森くん……?」
「先行っててくれ」
倒れたままの足立を睨み付けて孝介は言った。余計な質問は許さないという言外の空気を察したようだ。皆は互いに顔を見合わせたが、反論は出なかった。陽介はちらりとこちらを見たあと、
「行こうぜ」
そう言って先導するように歩き始めた。
足立は震える腕に力を込めて体を起こした。倒れた時に打ち付けたらしく、左の肘を痛そうにさすっている。孝介は手を貸さなかった。仲間たちの姿は霧にまぎれようとしている。足立はその後ろ姿をぼんやりとみつめていた。
一度こちらを見上げた。孝介がなにも言わないままでいると、よっこらしょ、と呟いてのろのろと立ち上がった。
「ずっと騙してたんだな」
横顔に向かって言い放った。足立は目の前をみつめたまま、しばらく無言だった。
「お互い様でしょ」
そう言ってゆっくりと歩き始めた。
「あんたと一緒にすんな」
足立はなにも答えなかった。
「あんたみたいな人でなしと一緒にするな!」
孝介はこぶしを握りしめた。怒りにかまけて殴ってやりたかったが、一度それを許せばどこまでも止まらないような気がして怖かった。
睨み付けた背中が不意に止まった。側にある岩に寄り掛かり、苦しそうに息をついている。
「ずっと騙せると思ってたよ」
呟きが聞こえた。
「だって、だぁれも気付かないんだもん。ま、上手くやったからだけどね。それにしたって、一回くらいは内部の人間疑うべきだったよね。そしたらちょっとヤバかったんだけど、まぁそこら辺の詰めの甘さが、所詮は田舎の警察って感じかな」
「……」
「……騙せると思ってたんだけどなあ」
言葉の最後が震えていた。一度だけしゃくりあげる声が聞こえて、それでおしまいだった。
孝介は高台の周りに浮かぶ霧をみつめている。
「……俺が、あんたじゃないかって言ったんだ」
足立はなにも答えなかった。しばらく経ってからぽつりと、そっか、と呟いただけだった。
「夏ぐらいからずっと変だったろ。……なんか、目的なくなったみたいな、怖い顔すること多くて」
「……そだね」
「…………なんで、ずっと騙しててくれなかったんだよ……!」
叫んだとたんに涙がこぼれた。
矛盾している。わかっていたけど我慢出来なかった。誰かに怒りをぶつけなければ収まらない。矛盾しているのは痛いほどにわかっている。だって、答えを望んだのは自分だ。真犯人をみつけようとみんなで決めた。それが誰だろうとなんだろうと、絶対に見定めると決めていた。
もう変えられない。
みつけてしまった答えを、見なかったフリはもう出来ない。
しばらく泣いた。涙を拭って顔を上げると、足立がこちらに振り返り、場違いな優しい表情を浮かべて見守ってくれていた。
「……あんた、バカだ」
「うん」
「全然頭よくない。あんたみたいな大バカ、初めて見た」
「うん」
「ほんっと、バカじゃないんですか……!!」
止めた筈の涙がまた落ちた。孝介はしゃくり上げ、気の済むまで泣いた。
どれくらいそうしていたのだろう。ふと足立が、
「君でよかったよ」
ぽつりと呟いた。孝介は顔を上げた。まだ涙は止まっていなかったが、そのだらしない顔で足立を見た。
「君でよかった」
足立はそう言って笑い、手を差し出してきた。
「そろそろ行こう。……みんな待ってるよ」
孝介は躊躇した。これで本当に足立が行ってしまう。いつまでもこうしているわけにいかないのはわかっているが、でも。
「行こうよ」
しつこく足立が手を差し出してくる。
「君が連れてってくれるんでしょ?」
孝介は自棄のようにその手を握った。握りしめ、ゆっくりと歩き出した。一度大きく息を吐き、横を向くと、足立が、しょうがないなあと言いたげに笑っていた。
どちらからともなく足を止めていた。足立の手が上がり、涙を拭い、一度ためらったのちに、まぶたの上へ唇を触れた。そのまま抱きしめられて、抱き返した。
「ありがと」
涙でかすんだ視界のなかで、真っ白な霧が揺れている。わずかな風が吹き、迷妄のさなかへと誘うように、足立の背後の霧が濃くなった。孝介は顔を起こして体を離し、もう一度息をつくと乱暴に涙を拭った。それでもこぼれる涙もそのままに、無理矢理笑いながら言った。
「帰りましょう」
うなずいて笑い返した足立の背中で、また霧が揺れた。孝介は目をそむけ、前を向いて歩き出した。
霧に埋もれながらも道は続いている。二人の前に、どこまでも。
嫌です・改訂版/2011.08.09