「あいつらしいってのが、よくわかんねぇよ」
素直に疑問を口にすると、孝介は面白そうに笑いながら振り向いた。
「そう?」
「だいたい俺、足立のことよく知らねぇし」
「そっか」
孝介を除けば、特捜隊メンバーのうちで足立に詳しいのは直斗くらいのものだ。それだとて捜査をする上で多少関わりがあった程度だろう。この風景が「らしい」というのなら、普段から足立はそういった部分を見せていたことになる。しかしそうすると今度は、そんな奴とどうして相棒が仲良く出来ていたのかが疑問だ。
陽介はあらためて辺りの景色を眺めてみた。
崩れた商用ビルの隣には銀行らしい背の低い建物があり、そのまた隣にはタイル張りのマンションが建っている。続いて二階建ての家屋が二棟、その奥には銭湯のものらしい折れた煙突が見えた。
シャッターを下ろした商店とATMコーナー、明かりの消えたレンタカーショップ。切れた電線が光るのにつられて目を向けると、また二階建ての家屋があって、その隣のひときわ目を惹く大きなビルに、何本もの鉄骨が突き刺さっていた。
確信を持って言えるわけではないが、鉄骨が突き刺さったあのビルは多分稲羽署だ。ボンネットが跳ね上がりドアをねじり取られ、不恰好にひしゃげた車が何台も積み重ねられたあのレンタカーショップは、八十稲羽駅から商店街へと通じる道に出たすぐのところで今も営業している。
シャッターに自転車が突き刺さっている商店も、金属バットで画面を打ち据えられた銀行のATMも、皆どこかしら見覚えのある光景だった。ここからでは霧で見通すことは出来ないが、恐らくどこかにジュネスも建っているのだろう。そしてそこも、きっとあんな風に無残な壊され方をしているに違いない。
今年の暮れ近く、この町は霧に呑み込まれる――その呑み込まれた稲羽市が今、目の前に広がっている。もし足立を止めることが出来なければ、自分が帰るべき場所もこうなるのだ。
暗がりと、絶えることのない炎と、霧のなかを蠢く無数のシャドウたち。
出てくるのはため息だけだった。
「足立ってどういう奴なん」
声に孝介が顔を上げた。じっとこっちをみつめたあと、困ったように首をかしげる。
そのままビルの方へと視線を投げ、何度か口を開くのが見えた。だが言葉はなかなか聞こえてこなかった。
「子供っぽい人だったよ」
何度目かの逡巡のあと、かすかに苦笑しながらそう言った。
「口が悪くてさ。自分勝手で我が儘で、……だらしなくてさ」
「……」
「たまに、怖い時もあった」
「いいとこなしじゃねぇか」
「ホントだ」
孝介はおかしそうに笑った。そんなことを言いながらも、全然嫌そうに見えない相棒の姿がなんだか不思議だった。孝介は笑いながら、壁に埋まった信号機の埃を払っている。
「あんまり年が離れてる感じはしなかったな。叔父さんと比べると全然刑事って感じじゃなかったし……どっちかっていうと、若い学校の先生ってイメージだった」
「あいつって元々東京に居たんだっけ?」
「警視庁だか警察庁だかに勤めてたらしいよ」
けいしちょうだかけいさつちょうだか、と口のなかで呟いた三秒後に、やっとそれが漢字に変換された。
「は!? え!? あいつエリートなの!? あんなのほほん顔で!?」
「国家試験受かったって言ってたから、そのまま勤めてたらエリートだったんだろうなぁ」
いわゆるキャリアというヤツだ。だが左遷されたのだと教えてくれた。
「なぁるほどねえ」
陽介は肩をすくめてしまう。あの消えることのない炎は、こんな田舎に飛ばしやがって、という怒りなのだろうか。
「……知り合った時にはもう、あの二人をテレビに落としてたんだよな」
孝介が呟いた。その視線はアスファルトの上へとぼんやり投げ出されている。
何故かしばらく返事が出来なかった。陽介はそうだなと呟き返しておいて、そっと顔をそむけた。考えるまいとしたが、どうしても思い出さずにはいられなかった。
四月。
山野アナと先輩が死んだ。死の数日前からマヨナカテレビに先輩の姿が映った。その時の映像を、陽介は今でも覚えている。
照明の落ちたコニシ酒店の前で黒いものにまとわりつかれ、必死になってもがきながら、決して聞こえることのない悲鳴をあげ続けていた。辺りは薄暗く、側にある自販機が、画面の外を凝視する横顔をぼんやりと照らし出していた。その目は恐怖に見開かれ、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのさえ見て取れた。
電話は勿論通じなかった。すぐに店まで行こうと思ったのに、どうしても次の一歩が踏み出せなかった。時間も遅い。なにより陽介の足を強く引き止めたのは、あまり先輩に快く思われていないらしいという「事実」だった。
数日前に山野真由美の死体が挙がったばかりだったけど、まさかそんなことはないと無理矢理言い聞かせて眠りの浅い一夜を過ごした。
やり直せないことがあるのだと知ったのは、翌日のことだ。
陽介は壁から身を乗り出し、あらためて遠くの景色を眺めた。どこを見ても無事な建物は存在しない。家の窓は割られ、ビルは壊され、明かりは全て消えている。
「……なあ」
呼びかけに孝介が顔を上げるのがわかった。
「あいつ、ずっとこんな風に見てたのかな」
「こんな風?」
「稲羽市をさ。――自分が住んでる町を、こんな風に見てたのかな」
答えを求めて振り返ると、孝介は怪訝そうに身を乗り出すところだった。そうして霧の向こうを見通しながら、投げかけた言葉について考え込んでいるようだった。
「……こんな、死んだ町みたいに思ってたのかなって」
今なんとなくだけど、孝介が「あの人らしい」と言った意味がわかったような気がした。
ずっと気味が悪かった。頭上を覆う赤黒い雲も、決して消えることのない炎も、滅茶苦茶に破壊された建物も。道を曲がるたびに、次はなにが出てくるんだと正直怖くてたまらなかった。霧と暗さとで視界は悪く、頭痛がするのはそのせいだと思っていた。
だけど、自分が恐れていたのはそういうことじゃない。
あの破壊された町を見て、想像するのは人の死体だ。無残に殺された誰かの――もしかしたら知っている誰かの死体をみつけてしまうのではないかと怖かった。だけど行けども行けども出てくるのはシャドウばかり。当たり前だが自分たち以外に人は居なくて、人の居ない破壊された稲羽市が足立の内面なのだとしたら、あいつはずっと無人の町に一人きりで居たことになる。
昔も、今も。たった一人で。
「……」
孝介は困惑しながら町を眺めている。なにか言いかけて口を開くが、言葉はなにも聞こえなかった。
同じように町をみつめ、怖かったのは景色のせいじゃないんだなと陽介は思った。
この町を作ったのは足立だ。ここは破壊されたわけじゃない。多分、最初からあの男が壊れた形のまま作り上げたのだ。景色を見ていると頭が痛くなるのは、本来ならあってしかるべき死体が逆に存在しないからだ。
どこまで行っても、あるのはからっぽばかり。壊れて用をなさない虚ろな入れ物ばかり。
陽介はふと寒気を覚え、我が身を掻き抱くように腕を組んだ。その時相棒の視線に気付いて同じ方向へと目を向けた。
孝介が見ているのは稲羽署の隣にある二階建ての家屋だった。頭上を走る電線が切れて屋根からぶら下がっており、二階の開いた窓の辺りでゆらゆらと揺れていた。時折電線の切っ先がスパークして辺りに火花を散らせているが、奇跡的にまだどこも壊された様子は見えなかった。
「あれ? あそこって――」
何度か見返すうちに思い出した。あの玄関の形には見覚えがある。振り返ると、孝介はじっと軒先を眺めたあと、小さくうなずいた。
「うちだ」
孝介が身を寄せている堂島家だった。建物自体は無傷だが、隣には今にも倒壊しそうな稲羽署が建っており、しかも電線が火花を散らすすぐ側では、カーテンがわずかな風に吹かれて揺れていた。ほんのちょっとしたきっかけでカーテンに火が付き、そうしたら建物全部が簡単に燃えてしまうだろう。カーテンと同じように電線が揺れているのは、足立が迷っていることの表れなのか。
「そんなにここが嫌だったのかな」
「……さあな」
孝介は唇を噛み締めている。掛ける言葉が思い付かなかった。彼は一度目を落としたあと、ゆっくりと首を振った。
「……でもあの人、俺のこと助けてくれたんだ」
陽介は再び堂島家へと視線を投げた。無傷のあの家が、唯一の良心の表れなのだろうか。からっぽで、無残に壊れればいいと思っていた町にも、心を寄せる場所があったという名残りなのか。
それがこんな形でしか表現出来なかったというなら、あまりにも淋し過ぎる。
孝介は小さくため息をつくと崩れかけの壁に座り直した。そうして目の前の光景を拒否するかのように、自分の手元を見下ろした。
「陽介」
「あ?」
「……お前、足立さんが憎いか?」
「憎いよ」
答えるのにためらいはなかった。
「憎いに決まってんじゃん。正直殺してやりてぇくらいだ」
「……そっか」
「せめて先輩とおんなじ目に遭わせてやりたいよ。出来ることならそれ以上の恐怖味わわせて、もっと長引かせて、死ぬギリギリのところで苦しませて――」
あの人の叫びは聞こえなかった。誰もあの人を助けてあげることは出来なかった。
「……」
一体何人の人間がその事実に気付いていたんだろう。何故孤独と恐怖のうちにあの人が死ななければいけなかったのか。
陽介は手の平にこぶしを打ち付けた。
「……でもさ、それじゃ意味ないだろ」
訊いたのは彼の方なのに、何故か孝介は耳を塞ぎたそうにしている。陽介は怒りを鎮める為に深く息を吐き出した。