「にしても、お前が注意受けるとか珍しいよな」
「そうか?」
 社会科教室は実習棟にある。これまでに一度も使ったことがなく、何があるのか見るのは今日が初めてだった。
 入口のドアを開けてなかに入ると、じっとりと湿った空気が出迎えてくれた。広さは通常の教室の半分程で、教室と言いながらも、実際にはただの資料室であるらしい。
「里中も言ってたけど、今日はお前マジで様子が変だしよ。……なんかあったんか?」
 換気の為に教室の窓を開けながら陽介が言う。心配してくれているらしい。友達というのは本当にいいものだ。
「…………聞きたい?」
 教室の隅にあるロッカーから箒を取り出して孝介は振り返る。自分でもだらしないのはわかっているが、どうしてもにやにや笑う口元が隠せなかった。
「いや待て! なんか聞かない方がいい気がする! っつうか聞かせんな!」
「なんだよ花村、そんなに聞きたいなら教えてやるよ。俺、実は昨日――」
「だーーーわーーー!!!」
 陽介は両方の耳を手でふさぎ、ありったけの大声を出しながらそっぽを向いた。孝介は箒の柄を両手で握り声が治まるのを待った。声を出し尽くした陽介は肩で大きく息をつき、耳をふさいだまま振り返った。物凄く神妙な顔付きだった。
「……もしかして、告った?」
 孝介はピースサインを返す。
「…………もしかしてオーケー貰った?」
 今度は親指を立てて返した。
「………………まさか……まさかお前……っ」
 ぐふぐふいう気持ち悪い笑い声が返事だ。陽介の顔が一瞬にして絶望の淵に沈んだ。
「お、俺の相棒が……、そんな、不潔な……!」
「バカ野郎、健康な十代の男子高校生だぞ。むしろ清潔だろうが」
 そう言って胸を張るが、実際には堂々と自慢出来ることではない。そもそも体だけならずっと前から関係があった。むしろそれが始まりだったと考えるとなんだか微妙な気分にもなるが、今はそんなことなどどうでもいい。
 まっすぐに足立を好きだと思える今の、なんと幸せなことか。
 陽介はしばらく言葉を失っていたが、やがて大きなため息をつき、ガリガリと髪の毛を掻き回した。
「……まぁ、男として負けを認めるのは口惜しいけどよ。親友としては祝福してやらなきゃなんねぇんだろうな、ここは」
「花村……」
「よかったな」
 そう言って陽介はまっすぐに笑いかけてくる。
 少し前、誰にも言えなかった胸の内を陽介にだけ聞いてもらった。あれが直接何かを解決したわけではなかったが、自分の気持ちと向き合うきっかけにはなった。今こうして幸福に酔っていられるのも彼のお陰だ。孝介はありがとうと心の底から言葉を返した。
「月森」
「なに?」
 陽介が照れ臭そうに笑いながら側へやって来た。そうして肩をポンと叩くと、
「天城たちに知られたくなけりゃビフテキ三人前奢れ」
 目が真剣だった。


 それからの数日間は本当に夢見心地だった。実際足立に会えたのは一日だけだが、毎晩のように電話をし合い、とりとめもなく話をした。週明けには休みが取れそうだというので、遊びに行くと約束も交わした。
 事件のことを忘れたわけではない。だが雪子から数えて三人もの救出を成し遂げ、犯人に対抗出来ているという自負があった。まだ犯行そのものを食い止めることは無理だが、近いうちに逮捕にまで漕ぎ付けられるのではないか、というのが仲間内の共通した意識だった。
 だから諸岡死亡の話を聞かされた時は、全身に冷や水を浴びせられたような気分になった。お前たちが賢しげに振りかざす「推理」などというものに意味はない、お前たちに私は止められない――犯人がそんな風に笑っている気がした。
 唯一の光明と言えるのは、犯人の目星が付いているということだろう。しかしそれすらも孝介たちを打ちのめした。犯人は高校生の少年。同じ年頃の、もしかしたらすぐ側に居たかも知れないその「誰か」を、自分たちは見逃していた。
 明らかな敗北だった。
「元気ないね」
 ジュースの入ったグラスを手渡しながら足立が言う。孝介はベッドに腰掛けてグラスを受け取り、そんなことないですよと笑おうとして、果たせなかった。
 足立は自分のグラスに一度口を付けてテーブルに置いた。脇に座り込み、リモコンを拾い上げるとテレビの音量を小さくする。さっきからニュースで諸岡のことを話している。稲羽市で起こった連続殺人事件、その第三の被害者。校長がインタビューに答える姿も少しだけ流れた。指導は厳しい物でしたが、実に信頼のおける人物でした……人というのは、死んでしまえば全て聖人君子になるようだ。
「諸岡さんって、君の担任だったんだって?」
「はい……」
「どういう人だったか訊いてもいい?」
 孝介が見る前で、「亡くなった諸岡金四郎さん」というテロップと共に顔写真が現れた。集合写真の一部を拡大しているようだ。学校行事か何かの折に撮った物だろう。他にも見覚えのある顔を幾つか見て取ることが出来た。
「嫌われてましたよ」
 その言葉を受けて、というわけではないだろうが、諸岡の写真が消えた。スタジオ内で沈痛な面持ちのアナウンサーが、四月からの流れを説明している。死体の置かれた状況から見て同一犯による犯行だとほぼ断定された、とのことだ。
「思い込みが激しくて、すぐに停学だとか言い出すし。お説教もくどくど長いし。先生たちのあいだではどうか知りませんけど、少なくとも生徒のなかじゃダントツに嫌われてました」
 勿論孝介も苦手だった。都会から来たというだけで、よからぬことを仕出かすのではないかと、常に目を付けられているような状況だったのだ。
 生活指導の名目で町を巡回する際も、たとえどこの学校の生徒であろうと関係なく注意をする為、よその学校にも存在を知られていたそうだ。諸岡を見てあんな大人にはなるまい、と考えることはあっても、ああいう教師になりたいと願う生徒は一人も居なかっただろう。
 でも、だからって殺されていい筈がない。
 死というものがこれほどまでに暴力的なものなのだと、孝介は知らずにいた。知っているつもりでいても、結局はわかっていなかった。それは当然来るべき明日を強引に奪っていく。昨日まで当たり前に存在していたものが突然失われている。躊躇したり惜しんだりする暇すらない。もうそれは無くなってしまったのだと突然教えられ、取り返す術はないと冷酷に突き付けられた時、そこに残るのは自分の無力さに対する激しい怒りだけだ。
「犯人の目星は付いてるって聞きましたけど」
「え? あぁ、うん。まあね」
 足立は誤魔化すようにテレビへと視線を投げた。その横顔を見ながら、訊いても無駄なのかなと孝介は考える。捜査に関わる刑事が、一般市民である自分のような人間に情報を洩らすことなど考えられない。足立は時折それに近いことを教えてくれたが、それだって世間話の域を大きく逸脱するほどではなかった。
 このまま座して状況を見守るしかないのだろうか。
「――なんかよからぬこと考えてない?」
「え?」
 振り返った足立が、やや心配そうにこちらを見ている。なんですか、それ。今度は孝介が誤魔化すように笑ったが、足立の心配そうな表情は変わらなかった。
「自分らで犯人みつけようとか、そういうこと。考えちゃってない?」
「……考えてないですよ。けど……」
「けど?」
「……」
 孝介は両手でグラスを持ち、縁の部分を親指でなぞった。上手く言葉がみつからなくて、徐々に苛立たしい気分になるのがわかった。
「だって、口惜しいじゃないですか。自分が住んでる町で、すごく身近な人が何人も殺されてて、……そりゃ先生のことは好きじゃなかったけど、なんでって思うじゃないですか」
 何故殺されなければならなかったのか。どんな理由があったのか? 殺された人だけじゃない、自分たちが救い出したあの三人だって、何故誘拐されテレビに入れられなければならなかったのか。
 それは明らかに人の命を奪う行為だ。かなり勝手は違ったが、現に諸岡は死んでしまった。何故助けられなかったのだという後悔と、何故気付けなかったのだという怒り、そしてもし犯人が捕まったとしても、死んだ人間が生き返ることはないのだという無力感に、今の孝介は打ちひしがれている。
 足立は小さくため息をついて孝介の肩を抱き寄せた。そうして静かに髪を梳き、大丈夫だよ、と笑いかけてきた。
「すぐに犯人捕まって、平和な町が戻ってくるよ」
「……」
 孝介はうなずくが、何かを答えることは出来なかった。足立は孝介の頭を抱き、大丈夫だよと勇気づけるみたいに繰り返した。孝介が顔を上げると、ね、と言うように笑いかけてくる。
「……刑事さんの働きに期待してます」
「まーかせて」
 そう言って足立は自分の胸をどんと叩いた。孝介がつられて笑うと、足立はやっと安堵した顔で孝介の頭を乱暴に撫で、額にキスをしてくれた。


 後悔をするのは嫌なものなのだと、この時に孝介は学んだ。出来ることがあるなら今すぐに始めるべきなのだ。迷っているうちに、選べなくてグズグズしているうちに、それは結局のところ他の誰かに決断されてしまう。どちらを選んでも嫌な結末が来るのなら、誰かに押し付けられるよりは自分で選んだ方がまだ納得して受け入れられる。
 もし少しでも兆候があれば迷わず諸岡を助けに行った。どんなに嫌っている人物でも、目の前で殺されるのを見過ごすことは出来ない。この先いかに不利な状況が訪れようとも、足掻いて足掻いて、必ず成し遂げると孝介は決めた。
 自分たちの失敗は、誰かの死だ。もう二度と敗北に甘んじることなど許されない。
 ――諸岡の敵を討つことが出来たのはそれから二週間後のことだった。少年逮捕の知らせは、それに尽力した高校生たちについて一切語られることなく、全国規模でのトップニュースとなった。


聞きたい?/2013.01.14


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