足立の顔から表情が消えていた。まるで試すようにこちらをじっと見下ろしている。わずかに怒りの念だけは感じられたが、だからといって、ただの嫌味として条件を提示しているわけではないようだ。
――なんでだよ。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
ほんの十数分前まで、笑いながら話していたのが嘘のようだった。足立を好きだと気付いた自分が、もはや別人のように感じられる。逃げ出したことを謝ったら許してもらえるんだろうか。あの時逃げなければ、こんなことにはならなかったんだろうか。答えを出せないまま考え続けたが、でも、もう遅い。逃げ出さないことは選べなかった。だから今、別の選択肢を突き付けられているのだ。
断ったら全てが終わる。恋慕の日々も、あの口付けも、肌に触れる熱い指も、全部なくなる。でも代わりに嫌な思い出と、日々の平穏を手に入れる。
もし受け入れたら?
金が手に入る。そして、足立に会える。
……足立に会える。
突然逃げ出したことで足立はもう自分を嫌いになっているだろう。それでもこんなことを言い出すのは、まだ「さわりたい」と思ってもらえているからだ。
せめて次の「誰か」をみつけるまでは。
もうこれしか方法がないというのなら。
孝介は足元に目を落とした。手を伸ばして金を拾い上げた。そうしてその札をひらひらと振りながら、
「あと同じだけくれたら、今日もうちょっと付き合ってもいいですよ」
足立はにたりと、大きく嗤った。
シャワーを浴びた後、ジュースを飲みながら少しぼんやりした。夕方の六時に近い筈だが、外はまだ明るい。梅雨特有のまとわりつくような空気が部屋中に籠っている。
「エアコンないんですか?」
くわえ煙草でベッドに横たわった足立は、「扇風機はあるんだけどさぁ」と言って、部屋の隅に積み上げられた荷物の山を指差した。
「多分、それのどこかに居る」
「……いい加減少しは片付けましょうよ。異動になってから三ヶ月くらい経つんでしょ?」
「いやもう、面倒でさぁ」
そう言って、あははとだらしなく笑った。
「お掃除サービスでも頼もうかと思うんだけど、結構高いんだよねぇ。ホラ、君にいっぱいお金払っちゃったから」
「知りませんよ」
ジュースを飲み干して立ち上がる。落ちていた洋服を身に着け始めると、足立は煙草を消して起き上がった。
「帰るの?」
「帰ります」
「はーい」
足立は財布を探って金を取り出した。玄関に向かい、空手で戻ってくる。
奴は絶対に金を手渡ししない。帰り際に拾っていけるよう、最初と同じく玄関先の廊下に置いておく。言い分として、足立はこの金を「落としてしまった」ということにしているらしい。それを偶然孝介がみつけ、拾っていく、という流れのようだ。
直接金を渡しているわけじゃないから、孝介の手に金が入るのは別におかしいことではない、という建前らしいが、そもそも借りている部屋の占有地内に、しかも玄関の内側にある金を「落ちている」とするのは無理がある。
警察に身を置く者として最後に残したプライドなのかなんなのかは知らないが、くだらない、と孝介は思う。
――所詮は売春だろ。
金をくれると言うから会いに来る。金をあげるから来いと言う。二人を繋げる唯一の物は、この紙切れだけだ。おかしなものだ。自分の体がこんな、どこにでもある紙切れにすり替わっているなんて。
「それじゃあ」
「はーい。また今度ねー」
玄関で靴を履き、金を拾いながら立ち上がる。ドアを開けて外に出る時、「また今度」が次はいつになるのか、期待するのはもうやめた。
世界で一番・その1/2013.06.17
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