快楽は善だ、と足立が言った。それは人間を生かし続ける為に神様がくれたご褒美なのだ、と。
「まぁそればっかりじゃ生きてけないけどね。でもそれがなかったら、人類の歴史はここまで続いてなかったんじゃないのかな」
 美味い料理、酒、セックス、心地よい疲労、快適な眠り。人によっては痛みですら快感になる。
 他者の征服、力の行使、自然の支配。なんだっていい。
 人間はなんでも利用してきた。気持ちいい、ただそれだけを得る為に。
 孝介はベッドで横になったまま、その話を聞くともなしに聞いていた。足立は孝介の腹に頭を乗せて煙草の煙を吐いている。そうして空いている方の手で孝介の手を握り、時々唇を触れた。
 テレビは既に消してあった。外では雨が続いている。窓へと目を向けると、それを邪魔するように煙が流れてくる。
「煙草もですか」
「煙草も」
「なんでもいいんですね」
「人間は『気持ちいい』を探すように出来てるんだよ。強欲なんだね」
「……そうなのかな」
 下半身の心地よい痺れが、まだわずかに感じられた。
「お腹空かない?」
 不意に足立が身をもたげた。空いた、と答えて起き上がろうとするが、腕に力が入らなかった。足立は煙草を消すとこちらへ向き直り、しょうがないなぁと言って抱き起してくれた。
「あのさあ、こんな程度でへばってたら、この先もたないよ?」
「……へばってないですよ」
「そう?」
 足立はにやにやと笑っている。孝介が困って睨み付けると、なだめるように唇を触れてきた。
「この次はなにしよっかなあ」
 そう言って孝介の体を抱きしめた。顔を寄せると、まだはっきりと煙草の匂いが感じられた。
「なにして欲しい?」
 不意に脇から顔をのぞき込まれた。孝介は困ってそっぽを向く。足立はおかしそうにくすくすと笑った。
「まあ、次があればの話だけど」
 驚いて顔を上げた。例の真っ黒な目がこちらをみつめていた。
「また来る?」
 誘うわけでもなく、拒絶するでもない、真っ暗な穴蔵。
「……来ます」
 呟いたあと、恥ずかしくなって顔を伏せた。
「足立さんも電話ください。……別に、いつでもいいですから」
 返事はなかった。代わりに頭を乱暴に撫でられ、きつく抱きしめられた。そうして唇が重ねられた。孝介にとってそれは既に馴染みのものだった。
 ――どうしよう。
 足立を少しずつ覚えていく。
 抱きしめる腕の感触、煙草の匂い、生温かい舌と息遣い。
 声。
 だらしなく笑う口元。首筋のラインと、ごわごわとした髪の毛の感触を。
 唇が離れたあと、足立はしばらく何事かを考えるような目付きになった。なに、と訊くように目を向けると、不意ににんまりと大きく笑った。
「堂島さんがこれ知ったら、すっごい怒るんだろうなあ」
「な……なんで叔父さんの名前が出てくるんですか!」
「いたいけな高校生もてあそんで、いやぁらしいこといっぱいしちゃって、――あーそりゃあ怒るよなあ。なんてったって、甥っ子くんが男とさあ」
「…………!!」
 みなまで言うなとばかりに孝介は手を上げた。当たるを幸いにバシバシと叩きまくる。足立は痛みに顔をしかめながらも、おかしそうに笑っていた。やがて両手を捕えて、じっとこちらをのぞき込んできた。
「君はホント、いじめられるといい顔するよね」
「……バカじゃないんですか!」
「あだだだだ」
 孝介の放った頭突きが見事に決まった。


 踏み出す足は暗がりに沈みつつあった。隣を歩く陽介が遠くに見えるコテージを指差し、担任どもはあそこに泊まるのだと教えてくれた。
「晩飯は生徒と一緒になって作ってたけどな。でも楽しそうだったぜ」
 呑気でいいよなあと言って友人はため息をついた。
「だいだいさあ、カレーを不味く作れるって信じらんねぇよなあ」
 陽介が腹を押さえながらぼやいた。まったくだと返した時、同調するように孝介の腹が鳴った。
 一泊二日の林間学校初日。昼間ずっと重労働を行い、ようやくありついた晩飯は、とてもじゃないが飲み込むことすら出来ない物体Xだった。
「あそこまでいくと材料がかわいそうだな」
「ジャガイモも人参も玉ねぎも、あんなものに生まれ変わる為に育てられたわけじゃあるまいしさあ」
 あー帰りてえ、と陽介が再びぼやいた。
「うち帰って母ちゃんの晩飯食いてえ。俺、今だったらなんでも文句言わずに食うよ。出されたもん、全部綺麗にたいらげる自信がある」
「俺も」
 帰りたい。
 こうして日常と違う場所に居るせいでそれは強く感じられた。ぎゅうと絞り込むような胃の痛みも、その思いを加速させた。
 帰りたい。
 だがその時孝介が思い浮かべたのは、懐かしい堂島家ではなかった。東京に居た時暮らしていた部屋でもない。
 そこは足の踏み場もないほど汚れた場所だ。脱ぎ散らかした服となにが入っているのかわからない段ボールと読みかけの雑誌と衣装ケースと無理矢理詰め込まれたオーディオセットが並ぶ部屋。テーブルの上には汚れた灰皿があって、もみ消した煙草が何本も転がっている。綺麗なのはベッドの上だけ。ベッドの隅にはサルのぬいぐるみが一匹。テレビはいつも点いていて、面白くないなら見なければいいのに、家主はそれを退屈そうに眺めている。
 寝癖がついたままの頭。だらしなく笑う口元。人をバカにすることしか知らないような間の抜けた声。
 ――帰りたい。
 体が足立を覚えている。抱きしめる腕の感触を、重ねられた唇を。

帰りたい/2010.12.12


back
top