どうやら足立のなかから掃除という概念は完全に消え失せたようだ。ゴミだけはかろうじてまとめてあるものの、部屋のなかは無秩序が支配していた。よくこれで生活できるものだと感心してしまう。
台所とベッドをつなぐ短い獣道をたどって孝介は足立の隣に腰を下ろした。足立は煙草の煙を吐き出しながら孝介の頭を抱え込み、「ひーさしーぶりぃ」と歌うように言った。テーブルの周りには何本もの空き缶が転がっている。だいぶ出来上がっている様子だった。
「今火ぃ付けたばっかりだから、ちょっと時間かかるよ」
そう言って唇を押し付けてくる。酒臭い息に気付いて逃げるように身を引くと、足立は気にした様子もなく首筋に吸い付いてきた。
「ちょ……煙草っ」
灰が落ちそうになっている。足立は気怠そうに振り返ると腕を伸ばして灰を叩き落とした。どれくらい前から飲んでいるのか、灰皿も吸殻で満杯だった。
見かねた孝介は灰皿の中身を流しに捨てて上から水をかけた。部屋に戻ると足立はくわえ煙草でこちらをぼんやりと見上げていた。
「あー、ども」
「……もう寝た方がよくないですか」
鍋など出来上がる前に意識を失ってしまいそうに見えた。火事なんか起こされた日には目も当てられない。だが足立は「やだ」と子供のように言い張って首を振った。
「鍋食べるの。君と一緒に」
「あーはいはい、わかりましたよ」
孝介は苦笑して隣に腰掛けた。
コンロの火は今にも消えてしまうのではないかと思うほど弱々しかった。何故強くしないのかと尋ねると、キャベツだけだから、と足立は答えた。
「あのね、適当に千切ったキャベツを洗って、入れてあるだけなんだ。ほかには水もなにも入ってないの。だからあんまり強くしちゃうと焦げちゃうの」
「水も無し?」
「そ、水も無し。キャベツから水分が出るから、それだけでいいの」
だから時間がかかるの、と言ってもたれかかってきた。足が空き缶を蹴っ飛ばしたが、足立が気にした様子はない。
「何時から飲んでるんですか」
「仕事終わる前」
「はあ!?」
「あーでもね、こーんなちっちゃいヤツひとつだよ。車も運転してないし、うん、へーきへーき」
そう言ってにまにまと笑っている。孝介は言葉もなかった。寄りかかってくる体を押し戻して座り直させると、もう何度目になるのかわからない「どうしたんですか」を繰り返した。
「最近の足立さん、変ですよ」
「そお?」
「そうですよ。笑ってたかと思うといきなり元気なくなるし」
突然泣くし、またあの真っ暗な目でこっちを見るし。
だがそれは酒のせいであるようにも見えた。ふらふらと意味もなく揺れながら煙草をもみ消した足立は、そのまま孝介の手を握り、両手でもてあそび始めた。
「なんか、俺に出来ることとかないんですか」
「……」
「なにかあったんなら話してくださいよ」
のろのろと足立が振り向いた。やっぱり気のせいではなかったようだ。いつの間にか真っ暗な穴蔵がこちらを見ていた。そこにはなんの感情もない。言葉が返ってこなければ、自分の姿すら見えているのかと疑問に思ってしまうほどだ。
孝介は何故か不安を覚えて視線をそらせた。その横顔を見ながら足立は思った。
――むしろなにもないからだ。
なにもないから酔っ払う以外の方法がわからない。とてもじゃないがこんな退屈、正気で過ごせる自信はない。だけど酔っ払ったところで明日は来てしまう。退屈な昨日を終えてやっと今日を退屈に過ごしたのに、また退屈がやって来る。
どこまで行っても変わらない。ちょっとだけ期待したけどやっぱりあのガキも死ななかった。
目の前に居るこいつが、こいつらが、邪魔しやがったんだ。
孝介はためらいながらもまたこっちに向いた。足立に捕えられた自らの手にそっと力を入れて、ね、と言うように小さく笑いかけてくる。その顔を見た瞬間、ガキがなに必死になっちゃってんの、と笑い出したくなった。
お前らいいな。お前ら、俺のお陰で毎日楽しいんだろ。感謝しろよ? 俺に今そうやって偉そうになんか言えるのも、結局は俺のお陰なんだからな。俺が目ぇかけてやったからだぞ? 感謝しろよ?
だが実際には笑い声など出なかった。言葉を探すのもひと苦労だ。
「……出来ること?」
「いや、俺なんかじゃ頼りないでしょうけど……」
足立は握った孝介の手に目を落とした。そもそもなんで孝介がここに居るのか足立にはわからなかった。
なんで電話したんだっけ? あぁ、鍋? そうだっけ? でも別に電話なんかする必要なかったんだよ。だってフタなんか台所にあるじゃない。っていうか、なんでこんなクソ暑い日にわざわざ鍋なんかしてんの、僕。
酔っ払って買い物に行ったのは覚えている。安いからキャベツをカゴに入れて、ふらふらとお菓子の棚を巡っている時に――あぁ思い出した、こいつが居なかったからだ。
あの日のように孝介が現れなかったから。
いつまで待ってもやって来なかったから。
だから呼んでやったんだ。あぁ思い出した。
「じゃあさ、強姦させてよ」
ぴくりと孝介の指が動いた。
「は……?」
「強姦。一回やってみたかったんだよねー。滅茶苦茶に縛って無理矢理とかさ。あ、それとも青姦の方が燃えるかなあ」
一度喋り出すと驚くほどすらすらと言葉が出てきた。まるで自分の口を使って見知らぬ誰かが喋っているかのようだった。
「知ってる? ジュネスのフードコートにいい感じの死角があってさあ。勿論角度によってはモロ見えなんだけど、まぁ滅多に人が来ない方向だからそういう際どいラインがいいなーってずっと思ってたんだ」
「……」
「ジュネスって君の友達がバイトしてるんだよね? もしみつかっちゃったら、なんて言われるのかねぇ」
にまにまと笑いながら足立は喋り続けた。そのあいだずっと孝介の指をもてあそんでいた。そんなこと言ったらこいつが逃げちゃうだろ、そう文句を言い立てる自分の為に足立は孝介の手を握り続けている。彼をここにとどめておきたい気持ちと、追い返したい思いとが、胸のなかで戦っていた。
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